京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

学校では教えてくれないコト  日本語の文は大きくふたつに区分される

文字通りの意味なんです

文章表現というのは、究極の「自問自答」であるとよく言われます。

よく誤解されるのですが、これは「自分が書いたこの文章は、これで本当によかったのか、何度も何度も確認してみるべきではないのか。?」といったような、ストイックで哲学的な意味が述べられているのでは決してありません。

「自分自身を見つめ直して、もう一度、問い詰めてみる」という意味の「自問自答」ではないんです。

 

「桜並木沿いにある、あの豪華な建築住宅はどなたのお宅だったかな?」

「ああ、そうか、あれは企業の保養所だったな」

というように、自分で質問し、自分自身で答えるという、まさに単純そのものと言っていいような、文字通りの意味合いなんです。

まず、その仕組みをひとつの文(センテンス)で確認してみるとするなら、象徴的なのが「は」という助詞が使われる題目文になります。

あの、豪華な建築住宅、企業の保養所です を言い換えると、

あの、豪華な建築住宅(だれのものかというと)企業の保養所です となります。

「豪華な建築住宅は」の部分は問いであり、題目部と呼ばれ、「企業の保養所です」という答えが導き出されることになります。答えの部分が解説部ですね。

このように「は」で結ばれた、題目部と解説部で完成された文が「題説構文」と呼ばれるものであり、まさに、日本語の基幹文なのだと言われているんです。

そして、「あの、豪華な建築住宅は?」の問いに対する答えは、その時の書き手の主張や思惑によってさまざまパターンを持って出現します。

「一流の建築デザイナ―によって設計されたらしい」「意外と脆そうな地盤に建っている」「今は誰も住んでいないそうだ」など、問いに内在する含みは多様であり、それに応じた答えも多様で、自由であっていいんです。

ただ「会話」として置き換えてみるとよくわかるのですが、「は」という取り立て助詞を用いて、題目部で表現するには条件がひとつあって、話し手と聞き手の間で「豪華な建築住宅」という言葉がすでに話題となって出ていなくてはならないんですね。

「そういえば、こないだ気がついたんだけど、桜並木沿いの道路にすごく豪華な家が建ってるよね。」「ああ、知ってる。あのでっかい家だよね」というように、双方がすでに「前提」として認識している話題だけでしか、「は」を付けることができないんです。

それまでに話題にのぼっていなかったのに、「桜並木沿いにある、あの豪華な家は、企業の保養所だよ」なんて突然言われたら、聞き手はキョトンとなって、戸惑いながら「えっ、あ、そう」と言うしかなくなります。

「は」という助詞を伴う主題は、既知の内容でなければならないんです。

「あの、豪華な建築住宅は」という題目部が「前提」ならば、「企業の保養所です」という答えは「焦点」の役割を担います。

答えの部分になる「焦点」は読み手に最も注目されるところであり、そこには「新情報」が含まれているんです。

「企業の保養所です」という「新情報」は読み手の意識に刷り込まれ、今度は「前提」となって文脈は続いていくんですね。

でも、企業の保養所といえ、人が出入りしているところをあまり見かけないそうです

まずは それを知ること

「題説構文」が書き手の主観的判断で描かれた文型とするなら、相反するものとして、客観的事象だけを淡々と並べていく「叙述構文」という文型があります。

ヒロシ、「お前が好きだ」と、うぶなふりをして裕子に近づいた

ヒロシ、8ビートのダンスを踊っている

「は」ではなく、「が」を使って目の前に起こっている事象を現象描写する「叙述構文」、それは3人称目線で描かれる小説や、報道記事に見ることができます。

一方で、「題説構文」が使われるのは、論文やエッセイといった、自己の責任のもとに表現しようとする文章を書く場合ですね。

新聞だと、社説やコラムが「題説構文」で、事件記事が「叙述構文」と区分され構成されていますし、週刊誌の場合でも作家のエッセイなんかは「題説構文」、ゴシップ記事は「叙述構文」で書かれています。

週刊誌を発行する企業は、ゴシップ記事を掲載したことで、たとえ報道対象とした芸能人から訴えられたとしても裁判で簡単に負けることはありません。

なぜなら、週刊誌側は「情報提供者からこんな情報をもらった、そういった事実があったらしいと記事にしてるだけで、我が社の主観、判断がそこに含意してるというわけではありません。あくまで聞いたことを伝えてるんです。」と、「叙述構文」で報道しているにすぎないと主張するからなんですね。

このように日本語の文(センテンス)は「題説構文」と「叙述構文」に大きく二分されているんです。

まずこの「区分」を核として認識していなければ、他の文法理論をいくら学び続けたとしても脳内でリンクさせることはできません。

たとえば、「ひとつの文(センテンス)は述語が支配している」と、なにかの本で読んだとしても、それは、あくまで「叙述構文」にだけあてはまるだけで、「題説構文」というのは、また違う仕組みで構築されているからです。

「は」で示された「題説構文」は、決して述語が他の補語を支配する構造になっているわけでもなく、「は」をはさんで題目部と解説部はあくまで対等な関係であるからなんですね。

でも、企業の保養所といえ、人が出入りしているところをあまり見かけないそうです。

という文を、

でも、人が出入りしているところをあまり見かけないのが、あの企業の保養所なんです。

と、言い換えられることがその証拠といっていいでしょう。

ただ残念なことに、小学校から高校までの国語の授業でこの区分を教わることはほとんどないんです。

はじめて、この文法理論が確認されたのが明治41年のことなので、この国で日々繰り返されている国語の授業は、それ以前の状態とあまり大差がないということになります。