天授庵  細川幽斎 古今伝授の戦国武将が再建させた名刹

京都三大門のひとつ南禅寺の巨大な三門のすぐ傍に、杮葺きの本堂がただずむ天授庵。
池の縁を深紅の紅葉が包み込む池泉回遊式庭園と、本堂の前庭に広がる枯山水庭園のふたつの趣を感じることの出来る景観は、訪れる人々を魅了してやみません。

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南禅寺の塔頭のひとつである天授庵は、暦応2(1339)年に建立され、慶長7(1602)年に戦国武将の細川幽斎(ゆうさい)によって、現在の姿に再建されました。
天授庵には、細川幽斎の画像が保存されていますが、画の上の賛(さん)は、徳川家康のブレーンだった以心崇伝によって書かれたものです。

崇伝は、同じく南禅寺の塔頭である金地院を住房としていました。南禅寺及びその系列寺院は、徳川家が色濃く反映されていて、まさに徳川家康が求めていた西国の拠点になっていたといえるでしょう。

それゆえに、明治維新が起こり廃仏毀釈の折は、南禅寺及び系列寺院が新政府に廃寺寸前まで追い込まれることになるのです。寺の抵抗を全く聞き入れず、境内に不釣り合いな洋風の赤レンガアーチが架けられたのもこの頃でした。でも、150年たった今では、うまく寂れた赤レンガの趣が、緑や紅葉の楓に溶け込んで伽藍と見事に調和されています。

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細川幽斎は、77年間の生涯を戦国末期の動乱のなかで過ごしました。足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の四代に仕えるという珍しい大名であり、時代の変革を捉える能力が高く、激動の時代を生き抜いて天寿を全うしました。

また、幽斎は当代の文化人でもあり、歌学に優れ和歌・連歌の嗜みが深く、三条西実枝より「古今和歌集」の秘訣すなわち古今伝授を伝えられ、その奥義を得ていたのです。

信長の時代、京都・桂川から西の乙訓地域の支配を、幽斎は任されていました。長岡京市にある勝龍寺城は、細川家の本城であり、彼が古今伝授を受けたのもここでした。そして幽斎は明智光秀と固い絆で結ばれた戦友であり、息子の忠興は光秀の娘である玉(ガラシャ)を妻として迎えていたのです。

ですが、「本能寺の変」が起きた為に細川家に危機が訪れます。謀反を起こした光秀の娘であるガラシャが幽閉されるのです。光秀も秀吉に討たれ、その生涯を閉じました。
豊臣政権とも微妙な関係になり、親友の光秀の死によって深い悲しみの中にあった幽斎は、剃髪して家督を息子の忠興に譲ります。

しばらくして、関ヶ原の戦いが起こったとき、細川忠興は東軍・家康の陣にありました。
このとき、幽斎は京都・舞鶴の田辺城で、石田三成の西軍に包囲され討ち死に寸前の状態でした。

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後陽成天皇は、歌道秘訣が絶えることは許さないと、勅使を派遣して幽斎を救い出します。この時の帝の怒りは凄まじく、西軍は直立不動のまま、幽斎が城を出ていくさまを、ただ見ていることしか出来ませんでした。その後、幽斎は帝の想いに応えるように、桂離宮を造園した智仁親王や中院通勝、烏丸光広らに古今伝授を行うのです。