ビューポイントの門前
今ではすっかり紅葉の名所となった洛北の曼殊院ですが、15年ほど前までは、訪れる人もそんなに多くなかったようです。
樹々にふちどられた緩やかな坂道をまっすぐに上がっていくと、勅使門と淡青色の漆喰塀が見えてきます。
燃えるような朱の紅葉に彩られるこの門前は、曼殊院を繰り返し訪れる人たちのお気に入りのビューポイントとなっています。
また、塀に刻まれた白い五筋は、代々皇族が跡を継ぐ宮門跡寺院の格式を現在に伝えているんですね。
京都・寛永文化の結晶
1656年に良尚(りょうしょう)法親王が29代門主を継いだときに、今の場所に庭園建築が造られました。良尚法親王は、桂離宮を創建した八条宮智仁親王の次男です。
この智仁親王の甥にあたるのが後水尾天皇で、1659年に曼殊院のすぐ近くに修学院離宮を造営しました。
つまり、これらの三つの庭園建築は、ほぼ同時期に同じ血縁関係の皇族たちによって造られたのです。
だから、この王朝文化ただよう曼殊院の庭園建築は、「京都の寛永文化」の結晶と言われていたんですね。
この時代、皇室・公家・僧侶・茶人・芸術家など、あらゆる文化層が交流することによって生まれたものが宮廷サロンと呼ばれていたのですが、寛永文化というのは、その宮廷サロン文化の特徴が色濃く反映されていたものでした。
寛永文化を理解することは、京都の歴史を理解するのに、実は重要な意味を持つのです。
新たな文化交流に投入された潤沢な資金
この頃、これからは幕府が中心となり政治統制を行なうということを、禁中並公家諸法度を通じて徳川家は皇室に対して強く示しました。
そのかわりに、後水尾天皇のもとに徳川和子(家康の孫)が入代したことによって、幕府からの皇室料の献上が増加、安定するのです。
すなわち、幕府は皇室に対して、資金を今まで以上に提供するので口は出さないでくれという要求を提示したんですね。
その結果として、菊と葵の融合による潤沢な資金が、新たな文化交流に投入されました。
そして、この時期に、皇族の多くが格式の高い寺院の住職となっているのです。
各層の人々が門跡寺院に出入りすることによって、重層的な交流が可能になり、さまざまな建築や芸術が誕生します。
この頃、寺社側は皇室から子女を迎えて格を上げ、戦国時代以降、荒廃するにまかせていた境内や伽藍を次々と復興させていくのです。
この時代に整備された京都の寺社が多いのは、じつはこういった理由が大きいんですね。
だからこの事実に注目することによって、いにしえの京都の寺社復興という歴史を縦のイメージでとらえることが出来ます。
つまり、この皇室に配慮した幕府による復興整備という縦の流れと、この時代ならではの特殊な事情による、皇族と武家の良好な横の繫がりを考えたときに、このときの京都における時代背景を立体的にとらえイメージすることが可能になるんですね。(キーパーソンは後水尾院・東福門院和子・徳川家光です)
後水尾院が中心となった文化サロン
寛永文化の一連の流れの中心となったその人は、和歌や茶の湯など多才を発揮した譲位後の後水尾院です。
院は華道(立花)も好まれ、二代目・池坊専好が描いた写生図が数多く制作されるなど、サロンでは実に33回もの立花会が開催されているのです。
その寛永文化の結晶の一つでもある曼殊院には、国宝・黄不動尊、古今和歌集曼殊院本をはじめ、貴重な文化遺産が数多く遺されています。
良尚法親王は曼殊院で自ら手掛けたり収集されたりした書画・調度品に囲まれ、茶室「八窓軒」で茶の湯・立花・香道を友として37年間を過ごされました。
最高傑作 岸駒が描いた孔雀
そして、せっかく曼殊院を訪れられたのなら、ぜひ見ていただきたいのが、京都画壇に一大勢力を形成した岸派の祖である岸駒(がんく)の作品です。
良尚法親王の時代よりかなり後の江戸時代中期に活躍した作家なのですが、孔雀の間に描かれたこの襖絵は、見る人に衝撃を与える表現力の高い日本画です。
岸駒の作品は世襲親王家である有栖川宮にも非常に重宝されていました。
有栖川宮の家祖(初代)は高松宮好仁親王ですが、後陽成天皇の第7皇子、すなわち後水尾天皇の弟にあたります。
1788年、京都で発生した史上最大規模の火災である天明の大火で御所が焼失してしまったのですが、その再興のときに、障壁画の制作を指名されたのも岸駒だったのです。
そう、彼もまた、時代を越えて受け継がれた宮廷文化に深く関わった京都を代表する日本画家のひとりだったのです。