毘沙門堂    円山応挙の遊鯉と山もみじの名刹

天台宗五門跡という高い寺格を持つ毘沙門堂は、山あいにたたずむ風情のある山寺になります。

秋になるとこの辺り一帯が紅葉し、洛中とはまた違った雄大な風景を見ることが出来るのです。

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円山応挙 遊鯉

そして、是非ご覧になっていただきたいのが、円山応挙の杉板絵の衝立(ついたて)画なんですね。

この衝立に遊鯉が描かれた応挙の真筆作品は、逆遠近法の技法で描かれていて、見る角度によっては鯉がついて来るように見えます。

身近なところでは、京都国立博物館や承天閣美術館で何度も応挙の作品を鑑賞してきましたが、ここ毘沙門堂では、驚くことに、応挙の真筆がすぐそこ、ガラス窓に遮られることなく間近で鑑賞できるのです。

お寺や神社でそんなに応挙の作品が見れるわけではありません。京都市内でいえば、この毘沙門堂と修学院離宮くらいでしょうか。

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http://bishamon.or.jp/index.html

応挙から近代画壇への流れ

18世紀、幕府の置かれている江戸へと、政治の統治権はすでに移っていました。

一方で、中央に御所をいただく京都では、絵画や文学、建築などの芸術面でしっかりとした土台が、過去からの蓄積によってすでにもう出来上がっていたんですね。

これは、学問の普及、芸術の発展に、大寺院が力を貸していたことが背景的要因にありましたが、豪商など、文化芸術を庇護するパトロンの存在も大きかったようです。

特に、絵画の分野では、これらの文化推進運動を背景に、他都市では存在しにくい町絵師の集団が築き上げられました。

その代表的存在が円山応挙であり、伊藤若冲や曽我蕭白など在野にあった町絵師たちも飛躍的に活躍したのです。

天才的な才能で描きだされる作品、その実力に対して、正当な評価が伴う文化都市だったといえるのでしょう。

このときの、京都画壇に対する応挙の影響力は凄まじいものがありました。

晩年には、長い歴史を持つ土佐家や狩野家といった名家に並ぶほどになり、門下も100人を越えます。

その弟子のひとりである呉春は、南画の要素を加味させ新たに四条派をつくりました。

そこから、松村景文や岡本豊彦たちが出て竹内栖鳳へと続きます。栖鳳の弟子は上村松園です。

このように、応挙から放たれた画流というものが、よどみなく近代画壇へと注がれていくことになるのです。

 

応挙は15才の時、現在の京都府亀岡市の農村から上京しています。

淋しさに涙しながらも希望に満ちて、丁稚として玩具商に勤め、人形の顔に胡粉を塗る仕事を始めます。

そして、玩具商の主人がある日、応挙の描いた素描を偶然目にすることになります。

その才能に圧倒された主人は、仕事なんかさせている場合じゃないと、狩野派の絵師に付かせて絵を学ばさせるのです。

そんな風に、文化を築いていかなければならないという自然な意識が町の人々にあり、次世代の担い手に対する期待と配慮が当たり前のようにそこにはあったんですね。