京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

天球院  孤高の天才画家 狩野山雪

池田輝政の妹

妙心寺の塔頭のひとつである天球院が建立されたのは、寛永8(1631)年のことでした。

姫路城主の戦国武将・池田輝政の妹の天球院という院号から天球院という名は名付けられているんですね。

因幡若狭城主に嫁いだ彼女は、離縁し池田家に戻ります。彼女には子供がいなかったので、永大追善のための寺として天球院は建立されました。

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池田輝政の妻であり徳川家康の娘でもある良正院とは義理の姉妹になるのですが、ふたりは非常に仲が良く、池田家の繁栄に大きく貢献することになります。

池田家はもともと豊臣と繫がりが深かったのにも拘らず、ふたりの女傑が徳川家側に近接するように変革させ、この家を絶滅の危機から救い出したのです。

また池田家は、日本一華麗で壮大な芸術的建築物と称えられる世界文化遺産を現在に遺しています。

それは、シラサギが羽を広げたような優美な姿を誇る姫路城です。

白漆喰総塗籠造りのこの城は、ふたりの賢くしたたかな、そう先見の目を持った姉妹にささえられながら、その期待に応えるように輝政が創り上げたといっても、決していいすぎではないのでしょう。

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京狩野派の山楽・山雪による国宝級の襖絵

一方で妹は、臨済宗の中で最大規模の宗勢を持つ妙心寺の境内に、後世に遺る芸術品といえる塔頭寺院を完成させました。

その天球院には、京狩野派の山楽・山雪によって描かれた人々を魅了する国宝級の襖絵が残されています。

山楽は、自身の門人であった山雪に、娘の竹(たけ)の婿として後を継がせました。

山雪は師匠である山楽の助手を務めながら、徐々に一人立ちの画家に成長していきます。

天球院の襖絵の制作に当たったときは、山楽はすでに77歳、山雪は44歳でしたので、実際の仕事の中心となったのは山雪だったという説が、美術史家たちのなかでは有力になっているのです。

というのも、上間一の間の水墨山水画と虎図は、山雪が描いたものと、研究者の意見は一致していますが、他の部屋の四季花鳥図・籬(まがき)に草花図についてはハッキリと確定されてはいないんですね。

これは、両者の絵画様式がすごく近いために起こっていて、山楽から山雪への様式の連続を物語っているのでしょう。

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進化していく山雪の画風

寛永12年に山楽が没すると、山雪は京狩野を相続します。

その後、清水寺・泉涌寺・東福寺など京都の名立たる寺院の画作や、林家聖堂の歴聖大儒像の制作で大きく活躍していくのです。

これらの活動をえて、山雪の画風は徐々に変わっていきました。

それは、奇抜な形態・幾何学性の強い意匠・強烈な明暗のコントラストなど、きわめて特異で個性的なイメージを獲得していくのです。

山雪が描く世界は、主に雪月花をモチーフにしているのに、画面からは、ひやりとした冷気が伝わってきて、対象を空間のなかに凍結させようとしているようです。

山雪のその冷徹な感覚がもっとも表現されている作品が、「雪汀水禽図屏風」です。

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月光にきらめく銀波は、立体的な波で、本当に流れ動いてるかのように見える。これに対して、雁行する千鳥、戯れる水鳥たちは、一瞬動きを停めて凍りついている。

垂直・水平を強調した松の枝ぶり、穴だらけの岩。それらすべてが一体となって、シュールな冬の夜景を見事に描きだしています。

遺された天才の作品群

慶安年間(1648〜52)、詳しい事情は分かりませんが、何かしらのトラブルにまきこまれた山雪は、拘置所に入れられました。

最後には、九条家の助命運動によってなんとか救出されますが、ほどなく他界しました。

その時の、獄中から息子の永納に宛てた無実を訴える手紙は、今も残されています。孤高の天才画家は、不遇の晩年を過ごしたのです。

それでも、彼の遺した幻想的な作品は、今も人々を魅了してやみません。