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妙喜庵待庵  利休の最高傑作 草庵茶室

利休が造った茶室

主君・織田信長の仇うちのために明智光秀を滅ぼした豊臣秀吉は、乱世を制して天下布武を実現しました。

その復讐の舞台となった天王山を抱く山崎の地、そこにたたずんでいるのが古刹・妙喜庵(みょうきあん)です。

そう、この山崎の合戦後、あと処理のために秀吉は1年ほど山崎に滞在したのですが、妙喜庵はそのときの接待所として用いられたんですね。

茶道の完成者・天下の茶人といわれるあの千利休に、秀吉は妙喜庵の茶室・待庵(たいあん)の造営を命じました。

利休が造った現存する唯一の茶室として国宝に指定されている待庵は二畳の広さの極小茶室です。

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物欲を極限まで排除した空間

待庵は、むだな装飾がいっさいない「侘び」を具現化した草庵茶室の代表作といわれています。

それは、利休が秀吉を茶道指南する席であり、ふたりの一期一会の茶の湯のための厳しい対決の空間でした。

室床(むろとこ)とよばれる床の間は、通常の一間床の半分の広さの半間床で、壁も従来の張付壁ではなく、わら入りの土壁をあらわにしています。

つまり、豪華な掛け軸はかけられません。そのかわりに一輪挿しの花入れをかけられるようにしてあります。

名物を拒否し物欲を極限まで排除した空間を造る、侘び数寄に徹した草庵茶室だったんですね。

侘びさびの精神を嫌った秀吉

草庵茶室の特徴として「躙口(にじりぐち)」がありますが、この躙口は待庵が発祥の地といわれています。

これは40センチほどの茶室の入口ですが、武士も町衆も身分に関係なく平等にはいつくばって茶室に入ります。

だから、刀を腰にさしていたのではつかえて入る事ができません。

茶室に入る武士は、権威のシンボルである刀を、刀掛けにかけなければならないのです。それは、茶の世界の作法なんですね。

なんと秀吉は、この躙口にいら立ちを感じていました。そもそも、利休の侘びさびの精神に大きく不満を持っていたのです。

侘びが理解できない秀吉は黄金の茶室を好みました。躙口から頭を下げて茶室に入ることは我慢できなかったのです。

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これが信長のような器の持ち主であれば、このような作法を面白がったかもしれません。

秀吉だけでなく、信長支配下の時代の武将たちは皆、茶の湯の世界に憧れていました。

信長が利休を茶頭にし、茶の湯を広めましたが、誰もかれもが茶を点てることは禁じていたのです。

規制下のなか、秀吉の「茶を点てられる武士になりたい」という願望は、誰にもまして強い思いでした。

いろいろ文句を言うわりには、信長の茶頭であった利休が自分の茶頭になるという喜びを、秀吉はかみしめてたんですね。

狂いはじめた政策

そして、ことごとく願いを成就させ天下人にもなった秀吉のこの後の酔狂ぶりは、見るに耐えられないものです。

秀吉が命じた朝鮮出兵に対して、大半の武将が出兵をしぶっていました。

何故、わざわざ一方的で無意味な攻撃を仕掛けなければならないのか。武将という猛者たちは、そこに大義がなければ、決して殺戮を行うことはないのです。

利休の武将たちへのおもてなし

利休は、たくさんの武将の最後に立ち会ったと伝わります。武将たちにとって、利休の点てる茶はまさに手のとどかない憧れの的でした。

そんな、合戦にでる前の武将をひとりずつ、利休は心をこめて茶室に招きいれます。

「体調に気をつけてな。無理しなくていいからね」と茶を点てあたえます。

少し恥ずかしそうに笑いながらも、覚悟を決めた凛々しい表情をした武将たちがそこにいました。

点ててもらった茶を一服満喫して「じゃあ、ちょっといってきますね」と、彼らは戦場へ出かけて行きました。

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ですが、時は短く人生は残酷なのでしょうか。武将たちのほとんどの者が戻ってくることはありませんでした。

それでも利休は出兵する武将たちに、何度も、何度も茶の湯を点てます。

今生限りという万感の思いを込めて、一期一会という人との出会いで最も大切で厳しい言葉を心に刻み、利休は茶を点て続けたのです。