納涼床  鴨川の夏 麒麟の夏

鴨川が良く見える位置に座席が設置されて、懐石や割烹・京料理を楽しむ、夏の風物詩である納涼床の季節がやってきました。夕暮れ時に一杯やりながら目に映る、マジックアワーに包まれた鴨川の風景は格別です。納涼床が年中行事化となったのは、徳川政権の17世紀初めのころでした。

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平安時代から、何度もなんども氾濫する鴨川の大洪水は、雨が降るたびに京都の人々をいつも不安にさせていました。川幅も、西は現在の河原町通りから、東は大和大路まであるかなり広い幅だったので、一旦洪水が起こるとかなり大きな被害を受けていたんですね。1661年ころには、徳川家の大規模な護岸工事のおかげで、河原の幅は狭められ、土手には常設のお店が並び、岸沿いには高床が現れるようになったのです。

その少し前の家康の時代の頃ですが、出雲大社の巫女(みこ)といわれる阿国(おくに)が、若い女子のグループにそろいの小袖を着させて、念仏踊りを興行して大成功させます。そんな、ムーブメントを起こしたのもこの鴨川の舞台でした。今でいうところの、なんとか46とか、なんたら団子坂というグループみたいなものでしょうか。そして、彼女たちの踊りがもう一つ大きな飛躍を遂げたのは、名護屋三左衛門という当世風の若者とコラボを組んでからでした。

この時代の京都で流行っていたのは、バサラと呼ばれる異風が肩で風切る世界であり、刀脇差を横たえ奇抜な衣装で、阿国自身もひとつの役を演じていました。まさに、桃山時代から江戸初期にかけての、民衆の解放と平和への歓喜が押し寄せ、京童たちもそれにあわせて踊り続けたのです。

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京都にも関わりの深い明智光秀の生涯を描いた大河ドラマで、ビール以外にその名が意識されるようになった「麒麟」。麒麟とは王が仁のある政治を行うときに必ず現れるという聖なる獣のことですが、荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから解放し、麒麟を呼び寄せたのは本当は誰なのか。

百代の過客が変転してきた京都という街に住んでいた当時の人たちは、それは徳川初期三代将軍たちではないのかと、日々の暮らしの中で感じていたのではないでしょうか。永久に止まらずに続いていくような場所の中にいるので、本当に変革させたのは誰かに気付く。そんな、感じだったのかもしれません。

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徳川家光は、朝廷のある都、そこにある寺社仏閣・史跡・名所を徹底的に修理復興させ現在に遺しています。政権を完全に江戸に持っていくために、それは、京都にいる公家たちと決別するための最後の仕事だったんですね。ちゃんと裏に思惑があったのだとしても別にいいのではないでしょうか。結果としてこのとき遺されたものが、ほとんど国宝であり世界遺産になり、多くの人々を魅了しているのですから。

そして、きれいなドラマの世界ではない現実の世の中で、多くの人々を絶望的状況から救い出すような偉業を成し遂げるリーダーというのは、タヌキというか、ちょっと性格的に小難しいというか、少しいやらしいというのか、なかなか個人的には友達になりたくないような人なのではないかという気がします。

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その後、施工された鴨川運河は、明治期に何度か開削工事が行われ、大正時代には京阪電車鴨東線が延伸されるなどして東側(左岸)の床はなくなりました。現在のように本格的に鴨川の西側に床が並ぶようになったのは、昭和10年の大洪水の後のことです。

さらに、三条大橋から北へ続く川岸の、二条・丸太町・今出川と、今ではジョギングやランニング・サイクリングで川沿いを多くの人が行き交っていますが、終戦後ですらまだ整備がととのっていませんでした。気の遠くなるような長い月日の間、京都の統治者たちは、この川の治水にいつも苦悩してきたのです。