観智院  客殿に描かれた武蔵の水墨画 翼あるもの

東寺の子院を代表する存在で、教学研究で優秀な学僧を多く輩出した観智院は、延文4(1359)年に後宇多天皇の遺志によって創建されました。その後、徳川家康によって真言一宗の勧学院と定められます。

慶長10(1605)年に北政所(ねね)の寄進によって再建された、国宝の客殿は、桃山文化ただよう書院造りです。その客殿の前庭は「五大の庭」とよばれ、空海が海難に遭遇しながらも必死で帰国する様子と、それを見守る五大虚空蔵菩薩像のすがたが表現されています。

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そして、なんといっても注目すべきは、この客殿で観ることのできる宮本武蔵が描いた水墨画でしょう。「鷲の図」と「竹林の図」の2点が展示されていて、落剥がはげしく部分でしか確認できませんが、江戸時代中期に活躍した奇想の天才画家、伊藤若冲の水墨画に匹敵するような見応えがあります。
今回の秋の特別拝観からなのでしょうか。お寺の方のご配慮によって、客殿に入ると正面に「鷲の図」がすぐに目に留まり、左手に見える「竹林の図」も近くに迫ってくるようで、2年前に訪れたときよりも、かなり鑑賞しやすくなっているような気がしました。

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江戸時代の剣豪である宮本武蔵の名は、おそらく日本人なら誰でも聞いたことがあるはずですが、とにかく強い剣術家であり、生涯負け知らずと伝わっていて、京都にも数々の足跡をのこしているんですね。武蔵は北白川・一乗寺の決闘で、京都一の剣術道場と謳われた名家・吉岡道場の五十人余りの剣士とたった一人で闘い、すべての敵を倒しましたが、当然ながら自身も深い傷を負ってしまうのです。

その傷を癒すために、そして斬り合いの螺旋から逃れるように、武蔵はしばらくの間、観智院に身を隠します。ふたつの水墨画はこの時に遺されました。風に吹かれても、決して曲がることなく真っ直ぐに生えている竹の図。
まるで自分の生き様を写しだすような、孤高の目線で描かれた鷲の図。
62歳で生涯を閉じるまで、ひとつの場所に留まらず、大空を舞う翼ある鳥のように流浪の旅を続けた武蔵は、ただ一徹に剣術のことだけを突き詰める、一匹の侍だったのでしょう。

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京都・上京区西洞院通りにある吉岡道場に、武蔵が単身乗り込んだことで、血を血で洗う闘いがはじまります。「なんだ〜この田舎者が、なんのようじゃい」数十人の門下生たちは、一匹の若僧をせせら笑いました。
その瞬間、武蔵がその中の一人に、目に捉えることのできない強烈な太刀を浴びせます。打撃を受けたその人は、激しく大きな音をたてて、もんどりうって倒れました。

道場には一転して、張り詰めた空気が漂います。そして、そのあとすぐに門下生たちは、我先にと武蔵に目がけて、口々に何か喚きながら一斉に襲い掛かろうとしました。
でもそのとき、何事かと、奥から出てきた当主の吉岡清十郎が、「動くな!」と一喝してその場を制圧します。

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しばらくして、武蔵と清十郎は蓮台野(れんだいの)の地で向かいあいます。ふたりにとって避けることの出来ない決闘。蓮台野とは、その当時、鳥辺野や化野に並ぶ京の葬送地で、船岡山の北に広がる荒野でした。闘いは武蔵の一撃によって、あっけなく終わりました。

怒りに震える弟の吉岡伝七郎は、名門の沽券にかけて、人生のすべてをかけて、武蔵を生かしておくものかと斬り合いに挑みます。この二度目の決闘の場所は、具体的には特定できていませんが、吉川英治の小説や映画では三十三間堂に設定されているんですね。門下生たちは、気ままな当主の清十郎よりも、どこか不器用だけど人間味に溢れる弟の伝七郎を慕っていました。
ですがその伝七郎も、あっという間に武蔵に葬られてしまうのです。

残された門下生たちは、血の涙を泣きながら復讐を誓います。卑怯もへったくれもありません、吉岡一門総がかりの意趣返しです。一門は、武蔵を北白川・一乗寺の下り松の地へ呼び出します。
「さすがに、五十人はきついな〜」夜更けのうちに京都を脱出することも考えていた武蔵でしたが、「何故、俺は逃げないで下り松に向かっているのだろうか」と自身に戸惑いながらも、ゆっくりと決闘の地へと向かうのです。