大徳寺  たやすくひるまない臨済禅の拠点

臨済宗大徳寺派の大本山である名刹・大徳寺は、戦国武将たちが創建した数多くの塔頭を持ちます。花園上皇や後醍醐天皇の手厚い援助を受けていた大徳寺は、反体制側の足利将軍家が天下をとる時代になると、理不尽な扱いを受けるようになりました。「官の寺」であった天龍寺や相国寺に対して、「野の寺」の立場にあったのです。

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ですが、足利将軍家からの屈辱に耐えて、恩恵を受けなかったことが、のちの大徳寺の発展に大きく功を奏します。将軍家に遠慮して天龍寺や相国寺に近づけなかった諸大名や堺の商人たちから、愛顧を招くことになったからです。

戦国時代から桃山時代に一躍したこの寺は、堺に大きな影響力を持つ茶人・千利休によって、さらなる栄華を誇る禅寺に発展します。豊臣秀吉の命を受けた千利休が、織田信長の壮大な葬儀をここ大徳寺で催したからです。これによって「官の寺」たちとの立場は完全に逆転しました。

天正10(1582)年、信長の菩提寺として塔頭・総見院が山内に建立されます。
これによって、秀吉の政権下にあった各大名たちは、我も我もとこぞって諸院を建てようとしたので、大徳寺の寺勢はいちだんと高まっていくんですね。

もともと高僧を祀る寺として意味を持つ塔頭を、一族を弔う寺に変えて、数多くの塔頭が大徳寺に建ち並んでいったのです。それと同時に各塔頭には、すぐれた茶室や茶庭が建築されていきます。秀吉の茶頭でもあった利休は、大名や商人たちから、ますます尊敬されもてはやされました。

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ところが、この利休が秀吉の怒りを買い切腹させられます。なぜ切腹を命じられたのか、よく出てくる説のなかに、大徳寺の三門である金毛閣の建て替え事件が伝わりますが、そんな単純な話でもないようです。

これは、信長の大葬儀の7年後の天正17年に、利休が大徳寺の三門を楼閣・金毛閣に造替するのですが、寺から感謝の意味で、利休自身の木像を楼上に安置させて下さいと提案があり、利休は戸惑いながらも受け入れます。
参詣するために誰もがくぐる三門の上に、雪駄履きの像を立てるとはなにごとかと、そこはわしも通るのだぞと、秀吉は激怒し、利休は切腹を命じられたという内容です。おそらく、それだけで命まで奪うことは、まずないでしょう。

茶人とはいえ、一人の禅僧でもあった利休には、侘びさびも通じない秀吉に対してさまざまな思いの不満がありました。指でそっと拭き取れるような、そんな利休の、小さな反抗的な態度でした。でも、それに対する秀吉の苛立ちが積もりにつもって、堪忍袋の緒はついに切れてしまったのでしょう。

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金毛閣の二階にあった利休の木像を、秀吉は堀川一条戻り橋で磔にします。それでも怒りがおさまらず、つぎは大徳寺そのものを潰そうとするのです。
大徳寺第百十七世住持の古渓宗陳(こけいそうちん)は、秀吉の使者に対して、懐から剣を出し「このように法を衰退させるというなら、自分を斬ってからにしろ」と命をかけて一歩も引かず、大徳寺を取り壊すことをやめさせました。そして、この反骨の精神は、洛北の名刹・大徳寺に脈々と受け継がれていくのです。