洛中に今も伝わる逸話
室町時代に創建された本法寺。
その京都市民たちが誇る名刹は、さまざまな法難に遭いながらも正面から立ち向かい、ねばり強く布教を続けた日蓮宗の本山です。
一方で、京都・洛中には、本法寺に因んだ今も伝わるこんな美しき逸話も遺されています。
桃山時代、盗賊・石川五右衛門が本法寺に盗みに入ろうとしたときに、何やら話し声が聞こえてきたので、五右衛門はおもわずそっと奥の部屋をのぞきこみました。
ところが、そこで目にした千宗旦と10世貫主・日通上人の二人の茶の湯の作法があまりにも清新で美しく、つい見惚れた五右衛門は泥棒に入るのをやめてしまったそうなんです。
卓越した画才
その逸話と同じ桃山時代、そんな時代に本法寺と深い関わりを持つことになる、卓越した画才を発揮した絵師がいました。
その画家とは、北陸・能登七尾から京都へ上洛してきた長谷川等伯です。
等伯は能登に住んでいたときに、彼の宗旨である日蓮宗の寺に出入りをして仏画などを描いていました。
30歳をすぎた頃に養父母を亡くした等伯は、本法寺をはじめとする日蓮宗の寺を頼って京都を目指します。
「狩野派がなんぼのもんじゃい」幼いころから絵の才能に恵まれていた等伯は、都にのぼって、なにがなんでも一流の画家になりたいという野心を強く抱いていたんですね。
ある日、等伯の素描の何枚かを目にした本法寺の日通上人は、すこし体が震えるのを感じたといいます。
上人は「なんだこれは。ぼやぼやしている間はない。この尋常ではない才を一刻も早く世に知らしめなければ」と、堺に向かって走り出したそうです。
そして、大坂・堺出身の日通上人をつうじて、千利休をはじめとする超富裕層の堺人脈に連なる人々から等伯は多大な支援を受けることができました。
そのバックアップを得た彼は次々に実力を発揮し、狩野派が全てを仕切っていた京都画壇のなかに果敢に割り込んでいくのです。
龍図を描く理由
非公開文化財特別公開でしか見ることのできない本法寺所蔵作品、長谷川等伯筆【波龍図屏風】。
その最高傑作の作品は、体のなかを稲妻が駆け抜けるような衝撃をあたえてくれます。
龍は空想上の動物ですが、じつは、それを描くことは非常に深い意義を持つのです。
それはどういうことかというと、龍図というのは縁起の良い象徴であると同時に「善因善果、悪因悪果」という因果応報を表す意味合いを持つんですね。
そして、龍という化身はわずか一滴の水さえあれば天に昇るのだと伝わります。
それは、たとえば些細なきっかけでも良い兆しが少しでもあれば、一気に大きくなって天に舞い上がることを意味します。
諸々の争いごとや、人々を苦しめる流行りの病が絶えない時世にあっても、一滴の水をもとめて等伯は制作に挑んだのです。