聖徳太子と小野妹子 ゆかりの古刹
洛中から十数キロ離れた大原の里にたたずむ寂光院。
聖徳太子が自ら造った地蔵菩薩像を安置して、父・用明天皇の菩提を弔うために開創しました。
大原には太子が創った寺院が数多く有り、実光院の地蔵菩薩や通称蛇寺の阿弥陀如来も太子刻の伝承を持ちます。
それは、大原の里がかつて小野郷と呼ばれていて、太子に仕える小野妹子の領地だったことに強く影響を受けているんですね。
太子に絶対の信頼を得ていた妹子は、自分の領地に太子開創の寺院を次々と建立させていくのです。
京都三大漬け物のひとつ「しば漬け」
京都でも有数の観光地となった大原は、街道をはさんで右へたどれば三千院、左へ草生川に沿って歩いていくと寂光院や大原温泉があり、大勢の人たちで賑わっています。
それでも、紫蘇(しそ)畑のあるのどかな田園風景は広がっていて、その名の如く、「寂」の「光」が新緑や紅葉に照り映えた風雅な趣を、見事に醸し出しているのです。
京都三大漬け物のひとつである「しば漬け」は、この赤紫蘇畑の紫蘇を使います。
もともとは冬場の保存食で、キュウリかナスをミョーガや赤紫蘇で漬け込みますが、夏に漬けて2、3ヶ月後のちょうど今頃の10月くらいが、いわば旬となり新漬けを味わうことができる時期になります。
建礼門院徳子 安らかに
寂光院が有名になり、今もなお訪れる人たちが絶えないのは、ここに建礼門院が住んでいたからなんですね。
建礼門院徳子は、平清盛の娘に生まれて高倉天皇の后となり、安徳天皇を生みました。
ですが、治承5(1181)年2月4日、平清盛が64歳の生涯を閉じます。
その4年後、平家は壇ノ浦の戦いに敗れ西海で滅びましたが、徳子だけは敵方の源氏によって救い出されました。
わずか3歳の愛する我が子である安徳を失い、この世に留まってしまった徳子の苦悩は計り知れないものでした。
徳子は出家して寂光院に入寺し、36歳で生涯を終えるまでの8年間をここで過ごし、一門の菩提を弔うのです。
徳子が寂光院に入ったのは、侍女の阿波内侍(あわのないし)の招きがあり、訪れた時にいたく気に入ったからでした。
「大原女」(おはらめ)という頭に黒木を載せた独得な風俗の女性の姿が大原では有名ですが、それは、徳子の身のまわりの世話をしていた阿波内侍の山仕事をするときの、衣装を模した姿なのです。
徳子の傷の深さを知っていた里の人たち
阿波内侍は、信西(藤原道憲)の孫で寂光院と深い縁がありました。
内侍は悲しみで心を痛めていた徳子を慰めるために、この人里はなれ静寂に包まれた寺にお誘いしたのでしょう。
大原の里の人たちは思いがけない訪問客にざわめきます。あの皇后さまが、寂光院に入寺されお住まいになられるかもしれないと。
そして、徳子が抱いている心の傷の深さを、大原の里の人たちは知っていました。
だから、徳子に美味しいものを食べてもらって、少しでも元気になってもらおうと、みんなで工夫して、漬け物造りに励み、お届けしたのです。
「しば漬け」とは、彼女に対するそんな思いがこめられて造り出された漬け物なんですね。
買ってきたお弁当の中に赤いしば漬けを見つけると、なぜかほっと、心安らぐのはそういう理由からなのかも知れません。