渉成園  街中にただずむ 王朝文化ただよう庭園

平安時代初期、9世紀の終わり頃でしょうか、嵯峨天皇の皇子であり左大臣でもあった源融が建造した六条河原院という静かな別荘地がありました。
渉成園は、その苑池の遺跡と伝えられていて、承応2(1653)年に、本願寺第13代・宣如上人に依頼された石川丈山によって作庭されました。

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入口正面から振り返ると、真っ直ぐ西の方向500メートル程先に、京都三大門と呼ばれる中のひとつ、巨大な東本願寺の御影堂門が目に映ります。渉成園は、東本願寺の飛地境内地にあり、真宗の教えに基づいた仏寺庭園なんですね。

周辺に枳殻(からたち)の垣根を巡らしていたので「枳殻邸」(きこくてい)と呼ばれていましたが、枳殻はアゲハ蝶が好みますので、初夏の頃には河原町通りで、蝶の乱舞を見ることができました。

江戸時代初期の代表的詩人である石川丈山は、洛北一乗寺にある詩仙堂で悠々自適に過ごし、日本の李社(李白、社甫)と称えられた人物でした。渉成園にあるすべての建物や池は丈山によって名付けられ、彼の好む中国趣味が強烈に表現されているのです。

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丈山は徳川家康の家臣でしたが、33歳のときに、大坂夏の陣で先駆けの功名を立てようとして、軍規に違反し謹慎を命じられます。しばらくして許されますが、そのまま家臣に戻ることはせず丈山は藤堂高虎に仕え、さらにその後、広島で浅野家に13年間仕えることになります。

京都に戻った丈山は、それまでの生き方を全て捨て去り、洛北一乗寺に、中国の詩人36人の画像と自筆の詩を掲げた詩仙堂を造営するのです。

家康が最も信頼していた家臣の本田正信は、丈山の大叔父にあたります。
東本願寺は徳川家と関りが深いので、本田正信の昔からの血縁のつながりによって、隠居の身であったとはいえ丈山は、渉成園の設計に着手することになるんですね。何十年たっても徳川家との縁が、完全にきれることはなかったのでしょう。

池水、石組の景観は、丈山作庭のそのまま保たれていますが、建築群は、安政の大火と禁門の変の兵火で焼失した為に、明治時代に忠実に再現されました。印月池から侵雪橋、縮遠亭を望む景観をはじめ、江戸時代から渉成園十三景と紹介されている庭園内の四季折々の景趣は、味わい深いものがあります。
でも、桜と紅葉の季節に極めて素晴らしい景観になることは、実はあまり知られていないのです。

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京都駅から歩いて5分の距離、まさに街の中心にある場所なので、庭園を見る角度によっては、京都タワーやマンションが目に飛び込んできます。
そのため、必ずといっていいほどガイドブックなどの紹介文に「ただ今日では、周囲の高層建築が景観の妨げとなっていて残念だ」という、先入観をうえつける説明がなにげなく掲載されているのです。それだけの理由ではないでしょうけど、渉成園に訪れる人は、他の京都の観光名所に比べて少ない気がします。

ですが、園内はかなり広い敷地の中に、野趣に溢れる設計がされています。これからの紅葉の時期にうまくタイミングがあえば、訪れた人は、雑踏の街中からすぐの場所にある王朝文化ただよう庭園に、満足されることは間違いないでしょう。