かよい慣れた道、いつもよりゆっくりと歩く夕暮れの錦通り。
新型コロナのはやりで、本当に人がいないので、なんだか違う景色に見えます。
ここは、普段ならインバウンドの人々で溢れるグルメロードと呼ばれる有名な市場。いまは、人影もまばらです。
その為にいっそう印象深く目に映るのは、アーケードの入り口や天井下、シャッターなどに写された若冲の色彩やかな作品群たちです。
絵にしか描けない美しさとは何か
18世紀に日本画家として最も著名だった写生の天才画家・伊藤若冲は、この錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれました。
商売というものに全く興味をもてなかった若冲は、30代半ばで家督を弟に譲ります。
芸ごとや遊びごとにも無関心で、肉を口にすることもなく、妻帯も拒みました。
幼いころから学問は大嫌い。いったい何がしたいんだと、まわりからは、まるで無能者よばわりです。
でも、若冲の心にはたった一つの探求心しかありませんでした。
それは「絵にしか描けない美しさとは何か」ということ。ただ、それだけを生涯追い求めたのです。
若冲と大典
そんな若冲にも、心を開いて語りあえるひとりの僧侶がいました。
室町五山文化の最後の継承者といわれた、相國寺の大典です。
詩文や書・学問に多彩ぶりを発揮し、文人や画家たちとの交際も広く持つ大典は、若冲にとって信仰や生活上の師であり、制作活動に理念を与えてくれる大切な存在でした。
彩色花鳥画「動植綵絵」三十幅。そのほとんどは、若冲が40代の10年間の月日をすべて費やして制作した代表作です。
いってみれば若冲の魂がそそがれた作品群なのですが、彼は躊躇することなく、それを大典のいる相國寺に寄進しています。
暗闇の中を手探り状態で制作を続ける若冲、そんな彼を絶えず励まし完成に導いたのが、やはり大典だったのです。
若冲が相國寺を頻繫に訪れるとき、素麺や和菓子などの手みやげを寺僧たちにいつも差し入れていましたが、その度に、「今回は、大典の分はありませ~ん」「なんでやね~ん」という掛け合いがお約束になっていたそうです。
禅宗美術の歴史の宝庫
承天閣美術館は、相國寺創建600年記念事業の一環として1984年に開館した、相國寺境内にある美術館です。
相國寺・金閣寺・銀閣寺・他塔頭寺院に伝わる美術品が各展示会で見ることの出来る貴重な美術館で、一日中いても飽きることのない、禅宗美術の歴史をもっとも感じられる場所なんですね。
まさに、ここは若冲ワールドと言ってもいいほどの美術館で、企画展の予定はホームページで確認していただきたいのですが、入れ替わる展示品とは別に、なんと、茶室の床の間に若冲の作品が再現されていて、それが何点も常備展示されているのです。
人のつながりが相國寺を救う
若冲や大典の笑い声が境内の空に響き渡る、そんな時代が確かにありました。
そこから、人々の悩み、流行りの病など、何事もなかったのように相國寺にも長い月日が流れます。
そして、明治維新によって巻き起こった廃仏毀釈という災難が、この伝統ある寺にも、ようしゃなく襲い掛かることになります。
この窮状を救うために、明治22年、京都府知事の斡旋で、若冲が寄進した「動植綵絵」三十幅が宮内庁に献上されて、金一万円が下賜されました。
これによって相國寺は現在の境内の広さを確保できたのです。
遠い雲の上からその様子を見て、きっと、若冲はうれしそうに微笑んでいたに違いありません。