悪国師の名を受けて
徳川家康には、極めて優秀で才覚に長けた徳川幕府三百年の治世の基盤を築き上げたブレーンが二人いました。
一人は、民衆に絶大な人気のあった天台宗の傑僧・南光坊天海。
そして、もう一人は「悪国師」と呼ばれ、人々を苦しませる悪役の役割を担った「黒衣の宰相」以心崇伝(いしん すうでん)です。
南禅寺の塔頭寺院である金地院は、もともと南禅寺の住持だった崇伝によって再興されました。
幼いころから突出した学才を身につけていた崇伝は、わずか37歳の若さで南禅寺の住持となったのです。
当時、南禅寺は禅宗最高峰の寺院であり、その住持となることはすべての禅僧の目標であり夢でした。
その崇伝の異例の出世は、足利義輝の近臣・一色藤長の孫であったという出自もあるのですが、やはり並ならぬ頭脳と世才が備わっていたからできたに違いありません。
方広寺・鐘銘事件
家康の豊臣征伐のきっかけとなった1614年の方広寺・鐘銘事件。
これは、豊臣秀頼が方広寺の新たな大鐘を鋳造させたときに「国家安康」という銘文が刻まれていることが問題となった事件でした。
「さりげなく、家康という名を両断しているな。徳川を呪詛する不吉な文字を何で入れたんだ」と、徳川方は言いがかりをつけたのです。
この事件をきっかけに大坂冬の陣・夏の陣は起こり、豊臣家は滅びました。
脱出した千姫による助命嘆願も無視され、炎上した大阪城内で淀殿と息子の秀頼は介錯され自害したのです。
その一連のきっかけとなったこじつけを企画・立案したのは誰でもない、そう崇伝なのでした。
そして、恐れおおくも、皇室が徳川の為政に口を出させないように定めた「禁中並公家諸法度」や、キリシタン大名がいなくなってしまった最後の「キリスト教禁教令」。
これらも、すべて崇伝が考えだしたものなのです。もはや、彼は人々を苦しめる悪玉官僚だったと、当時、間違いなく思われていたに違いありません。
同じ家康のブレーンでありながら、民衆にとって、天海と崇伝はまさに英雄と悪漢であり、崇伝は京童たちからも「悪国師のあのアホ、ほんま腹立つわ」と徹底的に嫌われていたのです。
でも、嫌われるのを恐れて何も出来ないようでは、300年も大規模な戦争の起こらない世の中の基盤を作るなんてとても無理なのです。
ただの、いいとこ生まれの人気者のリーダーではとうてい成し遂げられないのではないでしょうか。
そう、多くの人々を苦しみから解放させるような仕事のできる人物は、優しい満点パパのような人たちの中からは、恐らく出てはこないのでしょう。
徹底的に記録された膨大な資料
崇伝が残した文書の量は尋常ではありませんでした。自分自身がどうなろうとも、組織のなかの誰かが戸惑うことなくすぐに引き継げるように、徹底的に記録しました。
それは、『異国日記』及び『本光国師日記』というふたつの膨大な資料によって今に遺されています。
これは、当時の外交および国内政治に関するあらゆる資料を、崇伝が自らの手によって書き写したものです。
禅宗最高峰の住持という繁忙な生活のなかで、すべての私生活を投げ捨てて、これだけのものを記録し続けたのです。
徹夜の日々が続いて顔色がどす黒くなる、そんなことも度々あったそうです。まさに彼にとっては、長く辛い戦いの日々だったのでしょう。
家康は、天海派と崇伝派の勢力のバランスを重視していましたが、家康が他界して秀忠の統治下になると、崇伝は徐々に一線から退いていくようになります。
崇伝が亡くなった後、永く続いた幕府のために偉大な働きをした彼の功績を重んじて、徳川家は金地院を大切に保存しました。
そして、明治維新が起こるまでのまでの間ずっと、禅宗の五山制度を統括する僧録司(そうろくし)に金地院の住職を任命したのです。