文章の書き出しに思わずつまづいてしまい、伝えたいことは決まっているのに、なかなか書き出せないことがあります。
そんな時に役に立つのが、連体修飾節の投げ出しによる主題提示です。
「京都市の西北部に建つ神護寺。それは、平安京が出現する少し前の天応元(781)年に・・・」
というように、「京都市の西北部に建つ」という連体修飾は、「神護寺」という名詞にかかり、その内容を詳しく説明しています。
つまり、連体修飾節とは、ある名詞の内容を豊かにするために、名詞の前に埋め込まれた修飾節のことを言うんですね。
「神護寺は・・」と、「は」文による確認から始めてしまうと、最初からなにかモタついた感じになってしまうので、いっそ、説明内容をつけた名詞文で投げ出してしまうのです。
「建つ神護寺。」に続いていくのは、「それは」という指示詞になりますが、提示とは投げ出すということなので、後続には、当然「それは」や「その」が使われることになります。
主題の投げ出し提示に便利な連体修飾節ですが、本来持つその機能は、複雑な概念を厳密に記述することが出来るという利便性に優れるところにあります。
日本語のようなSOV言語(主語―目的語―述語)では、名詞の前につくことから、連体修飾節は左へ左へと展開していきます。
たとえば、「康平」という名詞を詳しく説明するとしたら、
「マンションに住む康平」
などと名詞の前につけます。
さらに、「マンション」を詳しく説明するなら、
「Pホームから購入したマンションに住む康平」
というように、名詞「康平」にいくらでも属性を追加させていくことが出来るんですね。
ただ、そういった構造上にあるため、日本語は連体修飾節に向かない言語だと言われています。
英語の場合は、修飾表現は後からついてくる後置修飾が原則なのですが、日本語の修飾表現の場合、上に示すように前置修飾が原則だからです。
なんといっても英語文には関係代名詞というものがあります。
関係代名詞が提示されることにより、その後に修飾語が続くのだと明確に理解できる構造になっているのです。
それに対して日本語文だと、「Pホームから購入したマンションに」の時点ではなんの関係かが分からずに、「康平」という名詞が出てくるまでは全体を理解することができないんですね。
では、そういった不便さを感じてまでも日本語文で連体修飾節を使うメリットはどこにあるのでしょうか。
連体修飾節の本来の機能について先に述べたように、それはやはり、複雑な内容を一文のなかに盛り込むことが出来るということに尽きます。
そう、連体修飾節は名詞を限定するという性格上、文全体の構造を損ねることなく表現出来るのです。
たとえば、
「Pホームから購入したマンションに住む康平は、そろそろ売り払ってしまいたいと考えてる」
という文の場合、
「Pホームから購入したマンションに住む康平」
という従属節が縦の表現であり、
「康平は、そろそろ売り払ってしまいたいと考えてる」
という主節が横の表現になります。
だから主節と従属節が意味論的には互いに独立しながらも、複文として縦横に纏われることになり、平面的ではなく、立体的な言語表現が可能になるということなんですね。
このように、倫理関係を厳密に表さない連体修飾節による文表現には、さらなるメリットがあります。
まず、連用修飾節の場合は述語を単位として事態を一つひとつ時間軸の上に設定し、その時間関係を示さなければなりません。
ですが、連体修飾節の場合は時間関係をはっきりさせることなく、ある場面を一枚の絵として切り取ることも可能なんです。
では、その例文を夏目漱石の「門」から見てみましょう。
小六から一部始終を聞いた時、宗助はただ弟の顔をながめて、一口、「困ったな」と云った。
昔のようにかっと激して、すぐに叔母の所へ談判に押しかけるけしきもなければ、今までの自分に対して、世話にならないですむ人のように、よそよそしくしむけて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、憎いと思う様子も見えなかった。
[[自分の勝手に作り上げた美しい未来が、半分くずれかかったのを、さもはた人のせいででもあるかのごとく、心を乱している]小六の帰る姿を見送った]宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外にさす夕陽をしばらくながめていた。
(夏目漱石 『門』)
では、カッコで示した後半の連体修飾節の文を、仮に連用修飾節で中心にまとめるとしたら、どういう文になるか次に見てみましょう。
【 小六は、自分の勝手に作り上げた美しい未来が、半分くずれかかったのを、さもはた人のせいででもあるかのごとく、心を乱したまま帰途についたが、宗助はその姿を見送ったあと、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外にさす夕陽をしばらくながめていた。】
いかがでしょう、やはり、なんだかとっても説明調のくどい文体になってしまいます。
原文の持つ、一枚の絵画として切り取られた場面性は失われてしまうのです。
つまり言い換えれば、書き手は、連体修飾節を自在に使いこなせるようになることで、複雑な場面の臨場感でさえ、読み手に巧みに提示することが出来るということなんですね。