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まちがいだらけの日本語文法  達意の文章が書けるようになるために②

前回に引き続き、町田健さんの著書「まちがいだらけの日本語文法」から、非常に参考になった文法理論をピックアップし、ご紹介させていただきます。

今回は、第四章『文の仕組みを説明してこそ文法だ』のなかの(「太郎は平泳ぎが上手だ」の主語は何か)という項目について、町田さんの考察を詳しく追っていきます。

まず前提として町田さんは、「主語」という概念に対しては学校文法と同じ捉え方をされています。

つまり、文の構成的役割において「主語」は、述語にかかる他の連用修飾語よりもひとつ格上の存在であり、述語と同じくらいの重要性を持つものだという考え方です。

文は「主語」と「述語」を核として成り立っているという論理ですね。

学校文法はまちがいだらけだけど、こと主語に関しては説明不足ではあるが、その捉え方はまちがっていないという意見をもたれているんです。

このブログでこれまでご紹介してきました文法学者たちの、文を完成させるときに最も重要な存在となるのは「述語」だけなのであり、主語と呼ばれている「が」格も「を」格や「に」格と同等の主格という連用修飾語に過ぎないという考えと、まさに真逆の考察なのです。

ただ今回は、「主語」なのか「主格」なのかという論争がテーマではありませんので、そこはひとまず置いて先に進めていきたいと思います。

日本語の開眼 形容詞の本質

では、この「太郎は平泳ぎが上手だ」という文の主語は何か、という問題の答えを考えてみましょう。

じつは、この文の「太郎は」の裏には、「太郎が」という意味合いが隠されています。

「太郎が平泳ぎが上手なコト」から「太郎が」という文節を書き手が取り立てて主題化したものが「太郎は」という表現なんですね。

だから言い換えるなら、「太郎が平泳ぎが上手だ」と断定して言い切ってしまうこともできるわけなんです。

いわゆる二重主語と呼ばれるものですが、述語の「上手だ」に対しての、ただひとつしか許されない本来の主語となるのは「太郎」なのか「平泳ぎ」なのかという問題がここで出てきます。

一見どちらも言えそうなのですが、「上手な平泳ぎ」とは言えても、「上手な太郎」という表現は、やはり、日本語としては不自然な感じがします。

このことから、やはり、「平泳ぎ」を主語なのだとするほうがいいようにも思えるのですが、「太郎」が主語だという考えも簡単には捨てるわけにはいかないようなんですね。

なぜなら、「平泳ぎが上手だ」という表現全体が述語だと考える場合に、これは一つの形容詞の働きをしていると捉えることが出来るからです。

「Xが~だ」という形で一つの形容詞として働いている表現はかなり多く見られます。

たとえば、「背が高い」「気が強い」「腰が低い」などは、表現全体で形容詞とする述語となるのです。

ここで町田さんは、「ある表現が一つの形容詞として働いているかどうかは、その表現が(程度の差)を許すかどうかで決まる」と説かれています。

ここは大変参考になる大事な焦点で、町田さんのこの言葉は、形容詞という概念を理解するのに私自身にとっては非常に役立ちました。

たとえば、「大きい」という形容詞の場合、「この猫」と「あの猫」を大きさという観点から比べて、「この猫はあの猫より大きい」という表現がなされます。

一方で同じ用言の動詞の場合、たとえば「走っている」という動詞だけだと、「この猫はあの猫より走っている」というコト柄は考えられないのです。

「大きい」という形容詞が表す性質には「程度の差」がありうるのに、「走っている」という動詞が表す性質には「程度の差」がありえないということなんですね。(#「速く」という形容詞の連用形がつけばまた別の話ですが)

そう、形容詞が表す性質の根源にあるのは比較概念なのだと理解することで、述語に対する本質に少し近づくことが出来るのではないでしょうか。

形容詞に比べると動詞というのは反省的なところがある述語表現なのだとよく言われます。

つまり、「嬉しい」という形容詞は、普段の自分の感情と比較して喜びが溢れでてきているという話し手の主観的なものが感じられるのですが、「喜んでいる」という動詞の場合には感情の反省があるので「彼は喜んでいる」と客観的に言えるんですね。

自分自身の感情に対することに置き換えても、「歯が痛い」に対し「歯が痛む」だと、どこか突き放した他人事のような感じがするんです。どこか他人事のように話し、強がっているというのでしょうか。

そう、動詞で表現すると、まるで自身の感情の現れを外から見て言っているかのような表現になってしまう気がします。

「文章表現には形容詞をあまり使わずに動詞で表現しろ」と繰り返し言われるのは、意外とこんなところにも、その理由のひとつがあるのかもしれません。

形容詞的表現によって、「好き」だの「嫌い」だのと書き手の主観的な思いばかりを読まされたのでは読み手はたまったもんじゃありません。

しかもその文章は書き手の主観的表現なので、具体的表現に乏しい。

動詞を使ってどこか距離感のある表現で、しかも、具体的に書き綴られた文章のほうが読み手は好感を持って読み続けられるに違いありません。

日本語の文は動詞述語文、形容詞述語文、名詞述語文の3つだけなのですから、この特性を理解することで、効率的で達意な文章表現が出来るようになるのではないかと思うんですね。

日本語の文の本質

さて、(「太郎は平泳ぎが上手だ」の主語は何か)という問題の答えをいよいよ解き明かしたいと思いますが、やはり、文の構造として述語を「平泳ぎが上手だ」とするのか「上手だ」にするのか、どちらを選択するかによって主語になる名詞が違ってくると言えそうです。

つまり先行文脈によって答えは決まってくるということらしいんですね。

「太郎ってどんな人なんですか」のような質問がなされていたとするなら、「太郎は平泳ぎが上手だ」と答えるとき、「平泳ぎが上手だ」という述語が選択され、「太郎」が主語なのだということになります。

でも、「太郎は泳げるようだけど、どの泳ぎが上手いの」という質問だと、「平泳ぎが上手なんだよ」という答えになって「平泳ぎ」が主語となるんですね。

結局は、どういう述語が選択されるかによって主語は決まってしまうのでしょうか。

そう、なんだかんだ言っても、先行文脈に依存し、述語が主体となって他の連用修飾語の役割が決定されていくという日本語文の本質がここでもあぶり出されているのを感じることになるのです。