事態はひとつの時間軸のなかで
今回は、複文の表現形式のひとつである「連用修飾節」の仕組みを紐解いていきたいと思います。
先行する連用修飾節には、それこそ様々な接続方法による表現形式があるのですが、基本的には、後行する文末の述語(用言)に向かって文意を繋げる役割を果たします。
よく使用される連用修飾節のひとつのタイプとして、「~たら」「~けれども」などの条件を示すもの、「~ので」「~ために」などの原因・理由を示すもの、といった論理的因果関係の接続助詞を語尾につけて主節につなげていく形があります。
宝くじが当たったら、家を買いたい。(順接条件節)
いくら薬を飲んでも、いっこうに熱が下がらないのです。(逆接条件節)
風邪を引いたので、学校を休みます。(原因・理由節)
このように、連用修飾節(従属節)と主節は因果関係をもって論理的に結びつけられているんですね。
連用修飾節で構成された複文の場合、主節の述語を単位として、ひとつの時間軸上に事態は設定されていることになります。そこには、主節と従属節との時間関係が示されているんです。
私たちが文章を書こうとするとき、連続性を持った内容を一息で表現したいがゆえに、書き綴るひとつの文がどうしても長文になってしまうという場合が出てきます。
そんなとき、因果関係を示す連用修飾節を使うことで、たとえ長文になったとしても、より効果的に、つまり、読み手にスムーズに文意を伝えることが可能になるのです。
たとえば、例文として、太宰治の「斜陽」のなかに出てくる非常に長い1文を挙げてみます。
スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの先端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。 太宰治 「斜陽」
237文字というひとつのセンテンスとしては異様に長い1文ですが、けっして、読みにくいということはありません。
語られている内容が連続性を持っていることもひとつの理由ですが、「運んでいただくのだけれども」を境にして、文意が、前半と後半に大きく分けて表現されているのところに注目してみてください。
「けれども」という逆接条件節を用いることで、そこから先に変化があることが示されているのです。
つまり、前と後ろの論理的関係を明示して結びつけてあるんですね。
このように因果関係で示された連用修飾節を用いて構成された複文は、237文字という長文にも耐え得ることができます。
「けれども」というクサビを文の中心に強烈に打ち込むことで、論理的な繫がりを読み手の意識に強く植え付けることになるのです。
そして一方で気になるのが、「すこしうつむき」「スウプを掬い」といった動詞の連用形による接続表現です。
そう、これらの動詞の連用形は長いセンテンスを書くときに必ず使ってしまう連用修飾節のパターンなんです。
なにしろ、あえて極論として言うなら、動詞の連用形を使えばどこまでも果てしなく文を繋げていくことができるので、書き手は長文を書くときには知らず知らずのうちに使ってしまうことになるんですね。
ですが、この便利な動詞の連用形による接続方法こそが、複文を書くときに、最も読み手を混乱させてしまう表現形式となってしまうことになります。
ただ一つの例外
最初に、連用修飾節は基本的には文末の述語(用言)に向かって繋げていくという役割に変わりはないと書いたのですが、厳密にいうと、動詞の連用形だけは例外的です。
というのも、動詞の連用形だけは、最後の述語に直接的には係っていかないんですね。あくまでも主節の述語とは「並列」の関係にあります。
日本語の文における構成では、、すべての要素は文末の述語に係っていくという法則になっているのですが、この動詞の連用形だけが、唯一、例外となっているんです。
「並列」の関係とはどういうことかといいますと、たとえば、月が輝き、星がまたたく。という文に見られるように、ふたつの事柄が、ただ単に、対等に並べられている状態を示しています。
星がまたたき、月が輝く。と簡単に入れ替えられることが、ふたつの事柄が対等なのだということを証明しています。
さらに、月が輝き、またたく。 ✖ とは言えないことからも、先行の動詞の連用形は、後行の動詞述語に係ることが出来ないということが見てとれるのです。
また、月が輝き、星がまたたく。と、短い文なので、まったく違和感を感じませんが、
目を開けられていられないほどの横殴りの雨が降り、暗闇に覆われた空がひび割れてしまうのかと思うほどの雷鳴が響きわたり、ここ数年で経験したことのないような尋常ではない猛烈な・・・
という長文になった場合、「雨が降り」、「響きわたり」、といった動詞の連用形で区切られている一つひとつの長い連用修飾節(従属節)は、この文全体が終わるまで宙ぶらりんのまんま放置されることになります。
なにしろ、ただ並べられているだけなのですから。
そう、読み手は、この放置状態が置かれたまま続けられた文章を読み続けなければならないことを本能的に非常に嫌うんですね。
なぜなら私たち日本語のネイティブは、この動詞の連用形が文章にでてくると、「このまま放置して書き手は文を続けていくつもりなんだな」と簡単にすばやく察知してしまうからです。
だから、文章を書くときに動詞の連用形を使うときは、読み手に察知される隙も与えないぐらいに、とりあえず素早く、後続する文を終わらせるか、強くクサビが打たれた接続助詞につなげていかなくてはならないんです。
それがなされていない例文のような文章だと、読み手にとってよほど興味がある内容でなければ、もう読み続けることが嫌になってしまうのではないでしょうか。
このような例が、長文を書くと文意を読み取ることが困難になると言われる象徴的なものなんですね。
読み手は中途半端に提示されたものを繰り返し繰り返し目で追わなくてはならないために、非常に苦痛な思いをすることになるんです。
先の太宰の例文でも、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま・・・と動詞の連用形が繰り返されてはいるのですが、一区切りが短く、連続性を持って表現されているので、まったく抵抗感を抱くことはないのです。
そして、この太宰の長文で、「うつむき」「掬い」といった一連の動詞の連用形を受けとめる役割を果たすのは、文の終わりではなく、「けれども」という深く打ち付けられたクサビなんですね。
そう、細かく刻まれつながれた複数の動詞の連用形は、因果関係の連用修飾節で受け止め纏め上げられることで、最も有効的に生かされるのです。
最後にひとつ。動詞の連用形はついつい使ってしまうのに、何度も繰り返したり、節を長くしてしまうと読み手を混乱させてしまうという非常に厄介なものですが、じつは、少し工夫するだけで簡単に改善することができます。
それは、「輝いて」「うつむいて」「掬って」といった(て形)を使って、動詞をつなぐ方式で表現するというやり方です。
起きて、食事して、出勤する。という(て形)でつなぐ表現にしてしまうと、もう事柄を入れ替えることは出来ません。ふたつの事柄の間には、継起という序列が生まれるのです。
時間的前後関係を表現したり、論理的因果関係を表現するものとは異なるのですが、そこには継起という特別な序列が介入することになるんです。
その継起の序列からの自然の結果として、後行する事実に表現の重点が置かれ、先行する事実は、その後行する事実の背景を限定する要素となります。
このように動詞の連用形に「て」を加えるだけで、書き手は継起という序列表現を手に入れ、行き場のない並列表現から解き放たれることが出来るんですね。