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京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

文章表現のコツ  単調な繰り返しの文末表現を回避するにはどうすればいいのか

私たちがブログで文章を書くとき、ある避けて通れない問題があります。

日本語特有の現象といえるのでしょうか。あまり意識しないでいると、気が付けば、文末が単調になってしまっているという問題です。

いわゆるデス・マス調の丁寧体なら「す」、ダ・デアル調の普通体なら「る」でたいてい終わります。

そして、過去形なら、どちらの文体で書いても「た」がくることになるんですね。

書き綴っている途中でなんか変だなと読み返して見ると、「すすすす」「たたたた」と見事、続いているのに気づきます。

日本語のバリエーションは限られているのでどうしてもそうなってしまうのですが、これらは本当にうまく避けることが出来ないものなのでしょうか。

 

じつは、谷崎潤一郎、三島由紀夫、丸谷才一といった文豪たちもこの文末問題に触れてはいるのですが、「とにかく名文をたくさん読むこと」、と具体的な解決方法は何一つ教えてくれてはいません。

さらに谷崎にいたっては、「文尾なんて、誰も正確には使っていませんし、一々そんなことを気にしては用が足りません」とさえ、言い放っているのです。

ただ、その谷崎の言葉から、それこそ一世紀近い月日が流れています。

日本語学の発展に大いに貢献された文法学者たちは、ただ黙ってみているなんてことはなく、数々の研究成果をのこされているんですね。

そこで、さまざまな文法書や文書読本を読み漁っているうちに私は、この問題を解決するには、書き手の「視点」というものとの関わりを理解することが最も重要なのだと知りました。

「地」と「図」

カメラアングルとでもいうのでしょうか、カメラを引き離れることで全体を回想的にとらえたり、ときには対象に肉迫してズームアップでとらえてみる。

書き手というカメラマンの視点をスイッチさせることで、言語表現もそれに引っ張られていくようにさまざまな語りとなって表現されていくんですね。

具体的な文章例で紹介しますと、


潮だまりにはたくさんの生き物がいた。巻き貝もいるし、ウニもいる。ヤドカリも歩いている。シマダイも元気よく泳いでいる。康平はそうした生き物を夢中になって捕まえた


最初の「生き物がいた」、そして最後の「夢中になって捕まえた」という2文の文末が過去形になっているのが分かります。

これがカメラのアングルでいうと「引き」の撮り方であり、まるで天から神が見ているかのように客体的に全体像を映し出しているんです。

そして、それに挟み込まれるように「巻き貝もいるし、ウニもいる。ヤドカリも歩いている。シマダイも元気よく泳いでいる。」という文章が現在形で、まるで生き物たちに迫るように、康平の主体的「視点」で臨場感を持って描写されています。

そうなんです、ここでも、文章構成の核心ともいえる二重構造という仕組みでテキストというのが表現されているのがわかるんです。

テキストの「地」となる過去形が「図」となっている現在形を包み込むように語られているんですね。

このように、「地」と「図」という二重構造で組み立てていくことで、現在形と過去形が取り混ぜられていたとしても、読み手になんら違和感を与えることはありません。

視点を移動させることで臨場感を生み出したり、主体となって回想的にテキストをまとめ上げたりして観察を交錯させていく。

このようにして、カメラアングルと文末表現は見事にリンクしているのがわかります。

固定概念を捨てる

この日本語の二重構造理論を文末単調の問題回避に活用していくと、さまざなバリエーションを生み出していくことができます。

現在形と過去形の混合文章の他にも、

①丁寧体と普通体の混合文章 ②体言(名詞)止めと丁寧体の混合文章 などがあげられます。

①においては、「丁寧体と普通体を取り混ぜるなんて許されるのか、学校でも、それだけは絶対にしてはいけないと教わったぞ」、と思われるかたも多いでしょう。

ですが、全く問題ないんですね。理屈は現在形と過去形の混合文章と、なんら変わりありません。

「~します」という丁寧体が「地」となって、「~する」という普通体で終わる文が「図」になる。「図」の普通体の文が「地」という丁寧体の文のなかに収まることで安定性を得るんです。

いわば、そこにある文脈依存性をうまく利用するんですね。「図」の文が、「地」の文に依存度が高いならば、そこに、押し込めてしまうのです。

例文として、

私たちは日本語の文法を習う必要がない。日本語の文法を学ばなくても読んだり書いたりすることは出来るからである。そんな指摘を耳にすることがよくあります。この指摘は半分当たっていて、半分間違っています

という文の場合、最初の2文は、「日本語を話せるのだから、文法なんて習わなくていい」という第三者のむき出しの心情を代弁することで普通体で表現されています。

最後の2文は書き手自身の冷静なまとめとして、最初の2文を包み込むようにして丁寧体が使用されているのがわかります。

丁寧体と普通体を取り混ぜて文章を書く場合、文のタイプとして「図」となる普通体にもっともなりやすいのが、対象者や自分自身の感情を生のまま吐露している、この心情文です。

そして次に普通体になりやすいのが従属文、複文に現れる主文に付属する枝の文ですね。

さらに「淡々と事実を述べる」とよくいわれるように、事実文というのがその次に普通体で表現しやすいタイプとなっています。

たとえば、

「シンガーソングライターとして武道館を満杯にする。それこそが・・・・・」

のような文は、「シンガーソングライターとして武道館を満杯にするコト」とも言い換えられる素材性の高い文です。

陳述する力をあまり備えていない文であって、そのまま投げ出した印象がありますが、

これを、

「シンガーソングライターとして武道館を満杯にします。」

と「ます」をつけると、途端に文に独立要素が加わっていくのがわかります。

そうなんです、主張文、伝達文となっていくうちに、文の独立性が高まり「地」の概念が強くなってくるために、普通体で表現するのは少し難しくなっていくんですね。

丁寧体と普通体を混合させて文章を書き綴るなんていうと、それこそランダムに同時進行させていくような感覚で捉えてしまいそうになりますが、そうではなくて、あくまでも日本語の二重構造概念を意識したテキスト作成をすることで、流れるように自然な文章表現が出来るのです。