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京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

文章表現の本質 「つまり何? 言い換えれば何? 他でもない何? 要するにどういうコト?」

無言の読み手

文章表現という「書き言葉」は、会話コミュニケーションという「話し言葉」とは違って、あくまでも書き手からの一方的な伝達手段に過ぎません。

ですが、常に無言の読み手を意識し、対話を頭に想定しながら、言葉が紡ぎ出されていく表現であることに、違いはないはずです。

「話し言葉」というのは「声」を持って聞き手に伝える手段なのですから、当然、「音声ボリューム」の強弱を調整することが出来ます。

最も強調したい指示対象の部分にインパクトを加えて強く発声することで、聞き手に注意を促し意識させることが可能になります。

でも、音を持たない「書き言葉」では、そんなふうには表現することは出来ないんですね。

ではどうすればいいのか。「!」マークをつけたり、強調したい指示名詞だけを太字にすることで解決できるのかといえば、やはり、それでは難しいのだと思われます。

それらは読み手からすれば、仰々しくダイレクトに視覚に映りこみ、しかも文面に形として残されているので、どうしてもワザとらしく感じてしまうに違いありません。

また、太字を使いだすと、いつのまにか太字だらけのテキストになってしまうことが多く、書き手が本当に強調したい思いが託された言葉がどれなのかがよく伝わらなくなっているのも、よくあることなんですね。

インパクトを与えながらも、次の瞬間には消えてなくなる「話し言葉」の強調とは違って、「書き言葉」を用いて選択する指示名詞を強調させるには、特立的に意識させるのではなくて、さりげなく、深層心理に埋め込むように読み手の心に浸透させなければならないのです。

もっとも効果的な表現法

読み手が文章の文字を目で追いかけているとき、意識下にあるのは、つまるところ、主に下記に並べたような内容ではないでしょうか。

つまり何? 言い換えれば何? 他でもない何? 要するにどういうコト?

そう、自身の「唯一の答え」が含まれた情報を求めているはず。すなわち、他のなにでもない唯一のコト概念が示された「答え」です。

会話の中でも、話の内容が複雑になって聞き手がキョトンとしていると、話し手は「つまり、何が言いたいかと言うとね」と言ったその後に、最も伝えたいコト概念をまとめ上げて伝えようとします。

文章表現においても、それと同じような一文が必要とされるのですが、それこそが「同定文」と呼ばれるコピュラ文なのではないでしょうか。

もっぱら主語と述語を結ぶ働きや、テンスを表す働きしか持たない言語単位をコピュラと言います。

それによって構成される文をコピュラ文と呼ぶのですが、コピュラ文を形作るのは名詞述語文に限られるんですね。

文の構成でいうと2種類だけで、「~は~だ」と「~が~だ」で表現されるのですが、意味的には複雑になっていて「記述文」と「同定文」に解釈が分かれることになります。

「記述文」はある対象の属性を記述するだけの文で、「猫は動物だ」などのように「AはBだ」という本当に単純なコピュラ文なので、ここではあえてこれ以上は触れないことにします。

肝心なのは、「(わしこそが)バカボンのパパなのだ」のような、もう一つの「同定文」のほうで、これこそが、ある対象を他の対象によって同定する文、であり、「他のなにでもない」「唯一の対象が」という書き手の同定判断が含まれる重要な一文です。

アニメの中で、「愛する息子バカボン、その父こそが他のだれでもないこのワシなのだ」というバカボン愛をパパは連呼しているわけです。

もはや、後に続く物語の展開はこのパパの言葉に対しての補足にすぎないのでしょう。

物語をテキストに置き換えるとするなら、つまり何? 言い換えれば何? 他でもない何? 要するにどういうコト? という読み手が求める問に対して、まさにシンプルに答える表現形式と成された一文は何か。

それこそが「バカボンのパパなのだ」という同定文なんです。

 

さらに、

昼寝をするのに最適なのが、お寺や古民家だ。

男のそんなところに惹かれたのが、静江だった。

というように、同定文という名詞述語文では、述語の最後の答えの部分に「お寺や古民家」「静江」といった具体的な指示名詞が置かれることで読み手の印象に強く残り、談話の中心話題として長い射程を持って後続文脈に引き継がれていくわけなんですね。

逆に言えば、「お寺や古民家」「静江」といったワードを読み手に意図的に強く意識させたいのなら、「!」マークや太字を使うのではなく、同定文で印象を植え付けておいて、さらに後続文で詳しく詳細を付け加えていけばいいのです。

ここで、ゴルフ専門誌に掲載されている、分かりやすい例文をひとつあげてみます。

①アプローチで一番大切なことは、狙った落とし所にきちんとボールを運ぶこと。②寄せの「感性」を身に付けるには、狙った場所に落とす確率の高い技術が必要です。
③僕がアプローチの技術で基本にしているのがピッチエンドラン。④ここでは絶対的な約束事があります。⑤体を中心にしてヘッド軌道を丸くイメージし、体を水平回転させることです。
⑥丸く振っていくと、インパクトでボールに強くコンタクトしたりせず・・・・

というように、この➅以降の文章では、ピッチエンドランというアプローチ技術の詳細についての具体的な動詞述語文の説明が続いて行きます。

このテキストでは、①と③の文が同定文で表現されていて、テキスト全体を引っ張っているのが見て取れるのです。

①の文では、「アプローチで一番大切な こと」「狙った落とし所にきちんとボールを運ぶ こと」というように、動詞文のあとに「こと」をつけて表現されているのですが、これは名詞節といって動詞文の語尾に「こと」がつくことによって名詞文に変わってしまってるんですね。

①は「~ことは~ことだ」という名詞述語文の同定文だということです。このときの「こと」という単語は動詞文の後につくことで形式名詞と呼ばれます。

そして③の文というのは、①と②という先行文脈に対して絶妙な間でもって呼応している新情報が発信された同定文です。

この③の文こそが、記者が最も主張したい一文であり、最後に指示特定された「ピッチエンドラン」という書き手の概念に対しての補足文が続くことにより、「ピッチエンドラン」という指示名詞がこのあとテキスト全体を支配していくんですね。

僕がアプローチの技術で基本にしているのが(他でもない)ピッチエンドランだ。

僕がアプローチの技術で(唯一)基本にしているのがピッチエンドラン。

いかがでしょうか。プロの記者が巧みに読み手に指示対象を印象付けようとしているのを、同定文に注目するだけで私たちはいとも簡単に読み取れることが出来るのです。