吾輩は猫ではある
「吾輩は猫である」という日本人なら誰もが知る有名な作品タイトルがあります。
もしこの作品が「吾輩は猫だ」というタイトルだったとしたら、ここまで国民的知名度を得ることが、果たしてできていたでしょうか。
「吾輩は猫だ」という文は名詞述語文であり、「吾輩は猫である」という文は動詞述語文になります。
「吾輩は猫だ」なんていう強く断定した言い方ではなく、「吾輩は猫ではある」と、「ある」という動詞を用いることで、ぼやかすような表現を用いり、「吾輩」のことなのに主観的にではなく、あえて客観的なニュアンスを醸し出す。
猫を擬人化させるというタイトル表現を、あくまでも自然に成功させている感じがするんですね。
「猫(ではある)」「猫(ではない)」に使われている(ではある)(ではない)というこのふたつの言い方は、日本語で判断を下すときに、肯定否定の典型的な表現方法となっているんです。
なぜなら私たち日本人は「だ」「なのだ」という断定口調をあまり良しとせず、相手を気遣うために、少し和らげた言い切りを好んで使う国民性を持ち合わせているからです。
「猫で」の「で」は、「だ」という助動詞の連用形であり、その後に続く「ある」「ない」は形式用言と呼ばれています。「ある」が形式動詞で、「ない」が形式形容詞ですね。
「猫で」の次に「は」という取り立て助詞を間に入れて、「猫では」とし、続けて「ある」という形式動詞に繋げて「猫ではあるが」という動詞述語文に、あえて変換させているんです。
取り立て
同じような取り立てタイプを動詞の連用形の例文で見ると、
猫も早く歩きはするが・・・ 美しく咲きはするが・・・ と表現する場合があります。
これらも、「猫も早く歩く」「美しく咲く」というという叙述内容を、「は」で取り立てて強調する必要から生まれた特別の表現なんです。
「歩き」「咲き」という動詞の連用形をいったん「は」で取り立てて、さらに、実質概念の稀薄な「する」という形式動詞で受け止める。
内容的にはほとんど全同の叙述内容を、わざわざ、もう一度作り上げているわけなんですね。
ただ、内容的には同じだとしても、動詞が一旦取り立てられ、形式的に繰り返されることで、ムードとしては、断定や強調表現からますます離れていくことになります。
当然といえば当然で、そのために形式用言を使って書き手は叙述内容を繰り返しているからなんです。
そして文法的な絶対法則として、こうした動詞連用形の直後を「は」や「も」で取り立てると、その後に現れる形式用言は必ず「する」になります。
(動詞) 猫も早く歩きはするが・・・ 美しく咲きもするが・・・
逆に、形容詞や名詞の場合には必ず「ある」が出てくることになるんですね。
(形容詞)彼女は美しくはあるが・・・ この絵は美しくもあるけれど・・・
(名詞) 吾輩は猫ではある・・・ 吾輩は猫ではない
なるようになる
日本語の3大動詞というのは、「ある」「する」「なる」ですが、これに「ない」を付け加えた4つの用言は日本語の表現に非常に数多く登場してきます。
上に示したように、これらは形式用言に頻繁に使用されるからなんです。
「なる」という動詞を例に見てみますと、「N(に/と)なる」といった組み立て述語がテキストによく出てきます。(N=名詞)
弱さは、いつしか勇気になる。許せないのは、自分となる。
といった文の場合ですと、「なる」が本来携えている変化性の動詞職能を強く感じます。ここで使用されている「なる」は形式用言ではないからです。
弱さは、いつしか勇気だ。許せないのは、自分だ。 ✖
と、「だ」を使った名詞述語文に変えるとまったく変化性を感じることができませんし、日本語としてもどこか違和感があります。
ですが、たとえば、
廊下の突き当りの部屋が会場になっています。
入場できる方は18歳からとなっておりますので、ご了承ください。
という、この2つの例文だと「会場です」「18歳からです」と名詞述語文に書き変えても意味合い的には全く同じ捉え方が出来ます。「なる(なって)」は、もう、ほとんど形式化しています。
「なる」というのは本来、変化動詞なのですが、形式動詞的な文法職能が強くなっていくと、その変化性が稀薄にしそぎ落されていくのです。
ただ、名詞述語で伝えるのと、動詞述語で伝えるのでは相手が感じ取るニュアンスは決して同じではないんですね。
学校も4月8日から新学期だ。と言えば「さあ、始まるぞ」と、話し手の決意みたいなものがそこに表現されることになり、
学校も4月8日から新学期になる。と言われれば、「ああ、そうか始まるんだ、へぇ~なるんだ」と聞き手は思うのではないでしょうか。