月の色をもらって
京都市・桂川に架かる桂大橋。車を走らせ、その西岸から東を望むと、ときに、見事な満月に出会える夜があります。
そして、すぐ左にたたずむのが、宮内庁の管理する、あの「桂離宮」です。
こうして見ると、満月を遠望できる絶好のロケーションに導かれるかのように、離宮が建てられたことがよくわかります。
昭和初期に、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトが、その建築群を「日本美の粋」と絶賛したことで、世界的に知られることとなりました。
桂離宮はもともと八条宮家の別荘で、智仁(としひと)、智忠(としただ)親王の父子2代にわたって造営されています。
造営が始められたのは1620(元和6)年のことで、そこから、約50年もの歳月をかけて完成されているんですね。
その美観のための建築は徹底的にこだわりぬかれ、二度も増築が加えられて、後に、庭と建築の総合芸術と称されることになります。
中央に心字池があり、その周りに書院など7つの茶亭を配した回遊式庭園なのですが、たとえば、観月のための月波楼という建物の前から、少し見下ろして松琴亭のほうを見ると市松模様の襖が目に留まります。
松琴亭というのは離宮の中心的建築である茶屋なのですが、遠くから見ると、その建築デザインが、非常に印象が強く残る景観を醸し出していることがわかるんです。
タウトも、初夏のころに目にしたこの松琴亭の風景に心奪われ、感動しているんですね。
また、その庭園を回遊する苑路には、茶亭の他にも、数々の趣向が凝らしてあります。
門や船小屋、小橋や手水鉢、飛び石や石灯籠が所狭しと植栽のなかに配置され、変化に富んだ風景を創り出すのに成功しているのです。
桂離宮には1300個の飛び石が配置されているのですが、ひとつひとつ丹念に選りすぐられていて、しかも、その造形に対する凝り方というのは徹底されています。
それらは、真行草(しんぎょうそう)と3種類の飛び石で形成されていて、創建当時のものもかなり多く遺されているのです。
もう一度
創建者の智仁親王は後陽成天皇の弟にあたり、当時、世継ぎのなかった関白・豊臣秀吉のたっての希望により、関白を継ぐべく養子となっています。
ところが、翌年になって秀吉に実子の鶴松が生まれたために、養子の件は白紙となり、代わりに智仁親王のために八条宮家が新たに設立されることになりました。
さらに10年後には、後陽成天皇が智仁親王に皇位を譲ろうとするのですが、徳川に猛反対され天皇を継ぐことができませんでした。
そう、武家の支配勢力は豊臣から徳川へと変わっていたために、秀吉に重宝されていた智仁親王の皇位継承など家康が了承するわけもなかったんです。
ただ、そうは言っても、この時点で、八条宮家は皇室の血を色濃く引き継ぐ超一流の宮家です。
特級クラスの貴族庭園を建てることなど容易いことであり、そのための資金も潤沢に用意されていたんですね。
そして1641年、智仁親王から八条宮家を継承した息子の智忠親王は桂離宮の増築に着手しました。
古書院を修復し、中書院を増築、松琴亭、月波楼、笑意軒、卍字亭などの庭園施設を造営したのです。
このとき、智忠親王の妹で、西本願寺の良如のもとへ嫁いでいた梅宮が桂離宮を訪れているのですが、彼女の遺した『梅宮消息』によると、「目を驚かし」「よそでこんなことはできない」と参加者が口々に絶賛していたと書かれています。
「桂の涼しさが、ほんとにうらやましい」、兄思いの梅宮は、この他にも数多くの手紙を兄の智忠親王に送っています。
書き綴る言葉とは裏腹に、夏バテしていないかと心配し、冬は冬で風を引かぬようにと病弱な兄を心配しているのです。
「桂に移られてから、具合よくなってうれしく思います。お薬はきちんと飲んでいますか。大切なお体、どうぞゆっくりと御休養下さいね」と、本当に兄を心配するさまが、このように何通も書き遺されているんですね。
そして、梅宮から智忠親王へ、最後の手紙が届けられることになります。
「もう一度、お兄様と桂の月が見たかった」
書き遺した梅宮は29歳という若さで、はかなく、あの世へと逝ってしまったのです。
それから、また時は流れ1662年、桂離宮は、ほぼ現在の姿に整えられました。
ついに完成をみたこの年、今度は、まるで自分の使命を終えたかのように智忠親王が44歳の若さで空へと帰ってしまうことになります。
病や寿命というのはどうしようもなく、この世とは本当に儚いものですが、この儚さに、そう、八条宮家の人々の儚き思いこそが、桂離宮の美の本質であるような気がするんですね。