ふたつの「ガ」
今回ご紹介する一冊は、言語社会専攻 教授 三原健一氏の「構造から見る日本語文法」です。
ここで書かれている理論のその特徴は、日本語の語彙論的な意味よりも、むしろ、「構造」に基盤を置いて言語を考えようと説かれている点にあります。
「構造」から日本語を見ると、これまで気づかなかった面白い事実が続々と出てくるということを伝えようとして、三原さんはこの本を書かれました。
たとえば、第4章で三原さんは「多重主格構文」という二つの「ガ」句を持つ文について説明されています。
a)このクラスでは、岸田君が、いちばん頭がいい。
b)関取の中では、荒駒が、最も腰が強い。
c)大阪では、梅田駅前が、高層建築がいちばん多い。
日本語は述語が支配し、ことがらの数によって順次に補語が付け足されていくはずなのですが、この三つの文には、どうもそれが当てはまらないような感じがするのです。
なぜなら、abでは「岸田君がいい」「荒駒が強い」と言ってるわけではなく、cにおいても、「梅田駅前が多い」という意味にはならないからです。
だから、「ガ」格が付いているにも関わらず、「岸田君・荒駒・梅田駅前」という三つの名詞は、本当の意味で主格と呼ぶことができないんですね。
a)の文でいうなら、このクラスでいちばん頭がいいのは岸田君であって、その他の生徒は「いちばん頭がいい」という言い方が当てはまらないことを意味しています。
c)の文でも、高層建築がいちばん多いのは、あくまで梅田駅前であって、その他のエリアは全然少ないのだということなのです。
このような「~だけが」ということを意味する「ガ」句を「総記のガ」といいます。そこには、他の誰でもない、他のどこでもないという意味合いが含まれています。
他のものには当てはまらないという概念を強調しているわけですから、当然、その「ガ」句には強勢を置いた強い発音がされることになるんですね。
つまり、「岸田君だけが」「他の誰でもない荒駒が」「他のどのエリアでもなく梅田駅前が」という表現がそこに隠れているわけです。
a)において、「頭がいい」というまとまりと主述関係を担っているのは「岸田君」であり、つまり、「岸田君=頭がいい」ということです。
「頭がいい」のような述部を「複合述部」というのですが、わかりやすく見ると、下記のような構造になっています。
a)岸田君が、【頭がいい】
b)荒駒が、【腰が強い】
c)梅田駅前が、【高層建築が多い】
そう、a)は、「岸田君に(ついて言えば、どうかというと)頭がいい」という意味関係が読み取れますし、
c)についても、「梅田駅前(ついて言えば、どうかというと)高層建築が多い」という同じ意味が読み取れるのです。
このパターン、どこかで見たことがないでしょうか。そうなんです、いわゆる「ハ」文の主題提示文と同じ構造なんですね。
「象ハ鼻が長い」「象ハ(どうかというと)鼻が長い」という三上文法で出てきた主題提示文です。
すなわち、「岸田君(が)、いちばん頭がいい」という文は、「いちばん頭がいいの(は)岸田君だ」という文にひっくり返して表現することができるということです。
「このクラスでいちばん頭がいいの(は)岸田君だ」という「ハ」文を顕題文、「岸田君(が)、このクラスでは、いちばん頭がいい」という文を陰題文といいます。
まさに表裏一体、そこには、書き手が読み手に最も主張したい内容が含まれているのです。
なにしろ、「他の誰でもない、他のどこでもない」と声高々に発しているのですから。

いちど考えてみる
そして第5章では、「ヲ」句を使った「認識動詞構文」を用いて、その提示機能が「多重主格構文」と類似していることを指摘されています。
「認識動詞」というのは、判断を下す前に頭の中でいちど考える(認識する)ことを表す動詞のことで、比喩的に表現すると、「頭の中でいちど転がす」動詞だと言えます。
「認識動詞」を用いた構文のことを「認識動詞構文」と言いいますが、例えば、「考える」「感じる」「感謝する」「例える」「見立てる」などが、それにあたります。
d)私は教官の行動を不審に思った。
e)康平は旧友の好意をありがたく感じたようだ。
f)あいつは人生を軽く考えている。
認識動詞構文において、「教官の行動を」などの「ヲ」句に続くのは、(d)に見る「不審に」のような「二」形と、(e、f)のような「ありがたく・軽く」というイ形容詞の連用形「ク」形になります。
ここで注目すべきは、「ヲ」句と「二」形・「ク」形の語順を入れ替えられない、あるいは非常に入れ替えにくいということです。
日本語文は文末の述語を中心にして、補語になる名詞句は自由に入れ替えられるはずなのに、ここではそれができないのです。
d)✖ 私は不審に教官の行動を思った。
e)✖ 康平はありがたく旧友の好意を感じたようだ。
f)? あいつは軽く人生を考えている。
本来、「ガ」格と「ヲ」格というふたつの助詞は、文字通り他の格助詞とは別格の存在で、あまりにも強烈に述語と結びついているために文から脱落させることができます。
g)くそっ、ヒロシ(が)わたし(を)ぶった。→
くそっ、ヒロシ わたし ぶった。
h)沢田さん(が)もう辞表(を)提出したらしいぞ。→
沢田さん もう辞表 提出したらしいぞ。
i)サヨちゃん(が)夏休み(に)友達(と)沖縄に行ったらしいぞ。→
サヨちゃん 夏休み✖ 友達✖ 沖縄に行ったらしいぞ。
j)美穂(が)カナダ(から)ファックス(で)資料を送ってきたよ。→
美穂 カナダ✖ ファックス✖ 資料 送ってきたよ。
いかがでしょうか、「が」と「を」は脱落させても文意が通るのに対し、「に」「と」「から」「で」という格助詞は脱落させると全く文意が通らなくなることがわかります。
ところが、(d)(e)にこれをあてはめてみると、
d)私は教官の行動(を)不審に思った。→ 私は教官の行動✖ 不審に思った。
e)康平は旧友の好意(を)ありがたく感じたようだ。→ 康平は旧友の好意✖ ありがたく感じたようだ。
というように、脱落させると、日本語としてはかなり不自然な言葉になります。
認識動詞構文での「を」句は文法上では目的格とされているのですが、「を」を脱落させ難いという点で、通常の目的格とは振る舞いが大きく異なるのです。
これは何故かというと、「教官の行動を」という名詞句が「提示機能」の役割を果たしているからなんですね。
「私は教官の行動について言えば、それを不審に思った」という文意が続けられていると言えばわかりやすいでしょうか。
「岸田君が、いちばん頭がいい」という多重主格構文での「岸田君が」が、「岸田君について言えば、彼はいちばん頭がいい」という提示機能を果たしているのと同じ意味を持つのです。
「を」句に提示機能があるとすれば、それを先に置くのが当然で、「不審に」や「ありがたく」の部分を、語順を入れ替えて提示句の前に置くというのは、やはり許容できない変な文となってしまうんですね。
このことは多重主格構文でも共通していて、「頭が、岸田君がいちばんいい」とは言えないのです。
私たちは文書テキストを作成するとき、「ハ」文による主題提示文を書くことがどうしても多くなりがちです。
気が付けば、「なになにハ、」「これハ、」「彼ハ、」と、「ハ」を連発させることで単調でくどい文脈を続けてしまうのです。
でも、「が」句や「を」句の提示機能を自在に使いこなすことができれば、主題提示のバリエーションを増やすことができます。
そうすれば、書き手は、最も主張したいその一文をさりげなくテキスト内に滑り込ませることができますし、逆に、読み手となったときは、テキスト内の主要な一文を簡単に認識できるようになるのです。