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日本語基礎講座 三上文法入門  その裏に隠された真実

一般向けにわかりやすく解説

1952年、日本語文法にとってまさに画期的な論説と評判になった「現代語法序説」が世に出ました。著者は、当時の学界の異端児と呼ばれた三上章さんです。

文法学者として独創的な見解を示す三上さんは、その舌鋒鋭い議論の仕方が災いしてか、国語学界に敵も多かったのですが、その理論を受け継ぐ研究者は増え続け、現在では三上さんの功績は高く評価されているんですね。

人の意表をつくような内容が魅力的な三上さんの著書ですが、ほとんどが「一般向き」に書かれたものではなく、内容を理解するには非常に難易度が高いものとなっています。

だから、その独創的な理論を学び吸収したいのに、日本語の基本的構造など、ある程度の文法知識がないと専門用語も多くて、私なんかは、なかなかついていくのが難しいのです。

そこで今回ご紹介するのが、山崎紀美子さんの書かれた「日本語基礎講座―三上文法入門」なんですね。

こちらは、三上さんの貴重な説を解りやすくまとめられた三上入門ともいえる非常に有益な一冊となっています。

英語やロシア語など、どちらかというと外国語の研究を専門とされる山崎さんが三上さんの文法論にいたく共感され、その内容がいかに素晴らしいものであるかを世に広く知らしめようと筆を執られたのです。

山崎さんによると、三上さんの最大の嘆きは、戦後から続く学校文法における教育内容の矛盾がいまだに払拭されていないことだといいます。

その象徴ともいえるのが、「文は主語と述語を中心に構成されている」という英文法の論理を日本語の文に無理やりあてはめて教育しているという現状です。

そうではなく、日本語には日本語の論理があるのだから、外国語の服を日本語に着せるのはやめて、日本語の枠組みの中で子供たちに見る目を養わせなければならないと主張されているんですね。

日本語の文の中心となるのは「述語」だけです。主要語である「述語」は、文末に位置することで最後に全ての文意を決定し文を完成させます。

その書き手が伝えたい核心を表現する「述語」を補うように、事柄に応じてさまざな構成素が述語の補語として前に前につけ加えられていくのです。

当然、それまでの文脈で了解されていることは改めて加え書く必要はありません。

補語を省略できるなら省略するほど日本語の文章はよどむことなく読みやすく流れていくんですね。

主語と呼ばれている主格「が」というのは、「を」「に」「で」「へ」「と」という他の格成分と、あくまでも、述語に対する同じ補語というひとつの成分にすぎません。

日本語の文はそこに至るまでの場面や脈絡に依存するところが大きく、英語の文のような単文としての独立性に欠けている。だから英語の文のように一回一回主語をたてて表現する必要はどこにもないのだと、まず最初に教育現場で教えなければならないはずだと山崎さんは説かれています。

有題文と無題文

三上さんを最も有名にしたのは1960年に発刊された「象は鼻が長い」という著作です。これは以前このブログでも紹介させていただきました。

まさに三上理論の真骨頂ともいえる「主語廃止論」が主張されていて、「主題」と、主語と呼ばれる「主格」の構文的役割の相違を徹底的に説かれた内容となっているんです。

そして、山崎さんはこの三上文法入門のなかの【第2章「Xは」の本務と兼務】でこの論理について詳しく解説されています。

まず、日本語の文は有題文と無題文に分けることが出来るのですが、「Xは」があるのが有題文、ないのが無題文です。


無題文  きのう花子が黒門市場へ行った。

有題文  きのうは、花子が黒門市場行った。

     花子は、きのう黒門市場へ行った。

     黒門市場へは、きのう花子が言った。


と、この例のように、無題文の中にあるフレーズをピックアップして主題にすることを、提題といいます。

書き手の意思でわざわざピックアップして提示しているということは、そこに書き手の強い選択意思が含まれているということになりますので、「は」を使った主題文というのは、そこに書き手の「主体的意義」が提題されているということになるのです。

それに対して無題文のほうは、花子の行動を描写しているにすぎません。花子の行動を事実に基づき第三者として淡々と書きつづっているだけで、ここに含意されているのは「対象的意義」です。

日本語の構造を理解する上で最も需要なことは、この「主体的意義」「対象的意義」の間にある大きな断層イメージを、常に意識下に置いておくということなんですね。

 

 

では、この二項分類が分かりやすくなるように、【「Xは」の本務と兼務】というのはどういう論理なのかということを示しながら追っていきたいと思います。

今度は反対に有題文の「は」を消して、下記のようなコトたちを取り出しセンテンスを無題化します。


【 「Xが」の代行 】

ワールドカップは、終わった。→ ワールドカップ終わったコト

父は、ギターを買ってくれました。→ 父ギターを買ってくれたコト

きのうは、恋人の誕生日でした。→ きのう恋人の誕生日だったコト


「Xが」はどこから現れたかというと、「Xは」のかげから現れたと解釈するほかありません。「Xが]は、そこに潜在しているのです。

「Xが」がはじめから文面に出ていれば顕在ですが、あくまでこの「Xが」は「Xは」に隠れた潜在的存在なのです。

つまり、この「Xは」が「は」の本務であり、「Xが」は兼務にあたるんですね。

「ワールドカップが終わった・・・」では文としておさまりが悪いので「ワールドカップが終わったコト」と、カッコをつけてやります。

そして、「Xは」の兼務をするのは、さらに下に示すように、主格「が」だけではありません。「を」「に」「の」を用いた表示も考え合わせなければならないのです。


【 「Xを」の代行 】

主語という言葉は、廃止しなければならない。→ 主語という言葉廃止するコト

ピーマンと玉ねぎは、1センチ角に切ります。→ ピーマンと玉ねぎ1センチ角に切るコト

 

【 「Xに」の代行 】

秋は、いろんな行事が続きます。→ 秋いろんな行事が続くコト

日本は、温泉が多い。→ 日本温泉が多くあるコト

 

【 「Xの」の代行 】

象は、鼻が長い。→ 象鼻が長くあるコト

京都は、秋がいい。→ 京都秋がいいコト

 

 

このように「Xは」の兼務は決して「Xが」だけではないのに、この国では、「は」と「が」を一括りにすることで「主語」と定義し、「述語」と共に日本語文の基幹なのだと教えてきました。

そして、その他の兼務が存在するという事実に関しても全く見て見ぬふりを続けています。

「が・に・の・を」の兼務は全て同等な役割であるはずなのに「が」だけが不当に特別に取り上げられている。この三上さんたちの矛盾の追及に全く答えることなく、今も、「主語」の呪縛から抜け出せないのがこの国の教育現場の現状なのだそうです。

表裏一体の関係にあるとはいえども、「は」文などの係助詞と、「が・に・の・を」にみられる格助詞ではその構文的役割の次元が異なります。

まずはそこから伝え始めなければならないのに、全く真逆に導いていることになってしまっています。きっと、三上さんはそこに憤りを感じていたのでしょう。