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「話すように書け」は本当か? 会話を描写する難しさ

おしゃべりを字で書こう

書店にズラリと並べられている文章入門書。手に取り、パラパラとめくってみると、全容はさまざまなのでしょうが、どの入門書にも申し合わせたように、巻頭の部分あたりで「ある教え」についてページが割かれています。

【話すように書け】

文章入門書だけでなく、文豪から著名作家まで、口を揃えてこの教えを金科玉条にしているようなのですが、どうもこれは、明治期からの言文一致運動という篤い信仰からきている流れのようなんですね。

この国の言語改革のなかで唯一の成功例である言文一致体。それは、この運動の中心的担い手であった明治期の文学者たちの憧れでもあったんです。

作家の水上勉氏が遺した、文豪たちのエピソードの紹介によると、あの林芙美子が本郷菊坂ホテルに宇野浩二を訪ねて小説の書き方について質問したとき、「当人のしゃべるように書くんですよ」と宇野が答えたと書き記されています。

さらに水上氏は、宇野浩二から直に、「しゃべる通りの書き方の元祖は、武者小路実篤ですね」といってから、「しかし、調子が出たらペンは置くことですな」とアドバイスを受けたらしいのです。

(*宇野浩二 小説家  江戸川乱歩、水上勉など、後進の作家に多大な影響を与えた日本文壇の重鎮的存在)

また、芥川龍之介が「いや、自分は書くやうにしゃべりたい」と意を唱えたことに触発され、その先を行こうとして「書くやうに書く」と叫び出す作家たちが出てくるという、まるで禅問答のようなやり取りがされていたことも、今に語り継がれています。

そういった遥か昔の一大ブームの流れが今も脈々と受けつがれ、

「人と話ができるなら、だれだって文章が書けるのだ。おしゃべりを字で書こう」糸川英夫監修「美の知識88」

と提唱されるまでになり、話すように書け、言文一致こそ尊い、といまだに説き続けられることになったのです。

話し言葉だけの特徴

ところが一方で、石黒圭氏をはじめ、多くの現代の言語学者たちによると、日本語のように「書き言葉」と「話し言葉」が乖離した言語は他にはないと言います。

その証拠として、小説やエッセイにおける「会話による描写」を書くという行為が、じつは、書き手にとっては簡単にはできないことなんだという事実がそこにあるんですね。

やり取りが長く続く会話の描写を自然体で書くというのは本当に至難の業で、たとえば、あるベテラン編集者は、小説原稿の持ち込みがあったとき、会話の描写がどのように書かれているか、まずそこに目を向けるそうです。

ひとつひとつ時間をかけて持ち込み原稿を読み続けるには時間の限界があるため、そこを注視することにより手っ取り早く判断材料にして、作者の力量を容赦なく見抜くことが出来るらしいのです。

「書くように書く」と叫んだ作家がいたと笑い話がありましたが、言葉通りに受け取るのではなく、その深層心理をたどってみれば、意外と真意をついているのかもしれません。

なぜなら、「書かれた会話」というのは、実際に話される会話とも、また、かけ離れたユニークな存在であり、書かれた会話を自然な会話に見せるには、かなりハイレベルな技術が必要とされるからです。

つまり話し言葉をそのままに、書き言葉として文字に起こしたとしても、これはまったく話にならないということです。そんな文章はとても読めたもんじゃないんですね。

 

その理由をわかりやすく見るために、「話し言葉」独特の表現特徴を下記に並べてみます。

「会話の描写」に書き変えたとしても会話として違和感なく自然に読めるものから、文字にすると意味が取れなくなるものまで、伝わりやすさの強弱には揺れ幅があり、おおまかに3段階に分けることが出来るのではないでしょうか。

まず、文字に変換したとしても、読み手に最も自然だと感じさせる「話し言葉」の特徴をⒶレベルとします。そのひとつめに、【音の脱落・変化】があげられます。

「2人で見て(い)たら」「目につくだよね」「庭に入って(い)たよね」「2階にいて(い)たらね」

そして、もうひとつが、ハッキリと意図的に発言されている【省略】です。

「(#は)いいよね」「(#は)いいけどね」「別にあそこから(#に)でないよ」「もう、(#が)うっとしい!」「(#を)食べる?」

このようにⒶレベルの【音の脱落・変化】【省略】は、会話の描写に使われるときは、微妙に話し言葉感を出すために、むしろ、多用される表現といえます。

そして次のⒷレベルなのですが、このレベルに最も多く多種多様の特徴が見られ、これらは、文としての整合性を重んじるなら使用は控えられ、逆に、会話に臨場感を持たしたいなら多用されるという、いわばグレーゾーンともいえる微妙な位置にある表現なのだということがわかります。

それだけに、場面や状況に応じて、このⒷレベルを書き言葉で自在に操ることが出来れば、読み手に対して、自然な会話の描写を伝えるという執筆は、もう成功したも同然だと言えるのです。

列挙しますと、【倒置】【言いさし】【言いよどみ】【指示語】【ぼかし】というタイプがあげられます。

まず【倒置】ですが、「行かないよ、そんなとこ、だってお金がないもの」、といった具合に述語をまず示して文の形を決めて、それから修飾語や修飾句を並べていくという話し方になります。

わずかに見られる例外を除けば、書き言葉では、この真逆の手順が必要とされます。

つまり述語が最後にきて、文のすべてを締めくくらなければならないという定めがあるということです。

続いて、

【言いさし】

「いいけどね」「汚れがきになるねぇとか言っ」「お茶入れ」「上のほう、よう見えへんから

【言いよどみ】

「横に」「夜はね」「上、全然ね」

この2つは主に、述語省略ですね。

【指示語】

ここなんかぁ、あたらしい学校は」「そんな話をして」「これでちょうど半分」「あの家に引っ越したばっかり」

【ぼかし】

「日曜日か何かに」「天気のいい日とかね」「しんどいなぁみたいな感じ」


いかがでしょうか。【倒置】以外のⒷレベルで共通して見てとれるのは、これらがすべて「薄くぼかしたような省略」を前提に発言されているということです。

まぁ、自然と言えば自然なわけです。日常生活における会話において、互いが承知していることをワザワザ繰り返しながらしゃべっている人なんて見た事ありませんし、そんなことをしたら相手から変な目で見られることは間違いないでしょう。

だから、Ⓑレベルを書き言葉に変換するときは、これまでの文脈で読み手が「誰のこと」「何のこと」を十分把握していると予測できるなら、書き手は同じように薄くぼかしてしまったほうが、読み手に自然に伝えることが出来るということですなんですね。

そして最後のⒸレベルですが、これらは人が話すときにコミュニケーションの道具として使われたり、その人独自のクセが表出されているだけで、情報としての価値は一切ありません。

ときおり、この冗漫な表現がスポーツ新聞などに使われているのをよく見ますが、何が書いてあるのかサッパリわかりませんでした。使用されてしまっていることによってセンテンス全体の意味が取れなくなってしまうのです。

やはり書き言葉にするときは、下記のようなⒸレベルの表現だけは使用しないようにするのが賢明なのではないでしょうか。

【フィラー】

まぁね、ちょうどね」「まぁ、そういうことじゃなくて」「あれじゃない。庭にほら」「なにかね、こう胃の下あたりがね、こうね」「いやぁ、そんな」

【どもり】

こう、こ、いつからだろう」「庭にほら、出、出やすいからね」「あんな奴、、全然関係ないって感じ」

【あいづち】

「うん」「ああ、そう」「う~ん」「あ、ホントに」「あ、そうなんや」

センテンスの全てを包み込むモダリティ

そして最後に、おそらく、現実の「話し言葉」では使用されることはないのに、自然な「会話の描写」に見せるために、あえて文字にされることの多い言葉づかいの特徴をお伝えしたいと思います。

それは、発話者のキャラクターが読み手にわかりやすく伝わるようにと、多用される「終助詞」です。

たとえば、「三島さんって言う」「康平じゃない」「はっきり言ったことがあるんですって」「ここでは料理をしてたの」といった文末表現は女性語の特徴を示しています。

ですが、現実にこのような言葉づかいをする女性はめったに見かけません。

もし、「いや、聞いたことあるよ」という人は、おそらく映画やTVドラマのセリフで聴かれることが多いのではないでしょうか。

小説や対談のなかに複数のキャラクターが登場する場合、このように女性だと限定できる終助詞を使うことで、特定もしくはある程度誰が発話しているのかを限定することが容易くなるんです。セリフ以外の補足の説明文を必要とすることなくです。

また、「そりゃ、あんた、浮世の義理っつうものよ」「わかったもんじゃないじゃんか」という言葉づかいにすることで、あまり頭のよくない軽薄そうなキャラクターだということを匂わすこともできるわけなんですね。

 

終助詞というのは文末の述語の最後の最後にくる助詞で、書き手や話者の心的様子を表現するモダリティと呼ばれる文法的職能を果たしています。

モダリティ表現は言語伝達のなかで最も重要な役割を担っているので、それこそセンテンス全体の表現を左右するほどの影響力を持ちます。

だから、セリフの最後にうまく設定に応じた終助詞を当てはめてやると、本当に自然な流れをもって文末を締めくくることができるのです。