パラグラフとトピックセンテンス
文章教本としては、異例のロングセラーとなった木下是雄著「理科系の作文技術」。
物理学者の木下氏が、理科系の若手研究者や学生を対象として、論文、調査報告者といったレポート作成のための最も効果的な表現法を具体的にまとめ上げた一冊となっています。
エッセイや小説とは違って、理科系の仕事の文章というのは、そこに心情的要素を差し込む余地はありません。
実験研究をもとにした事実や状況と、それに伴う、判断や予測といった研究者の意見だけを、ただひたすらに淡々と現実の情報として、わかりやすく読者に伝達することを目的とする文章です。
そこで木下氏は、理科系の文章を書く心得として、「パラグラフ」の概念をもう一度、きちんと取り入れることを改革のひとつとして提唱されています。
パラグラフという言葉を日本語に言い換えるならば、長い文章のなかの一区切り(段落)という意味と同じ概念を持つものですが、「そろそろ、このあたりかな」と漠然と改行されるのではなく、あるひとつのトピック(小主題)について、ある一つの考えが全体としてまとめ上げられて、読み手に明言されてなければならないんですね。
そして、そのひとつの小主題をわかりやすく1文に置き換えた文が、「トピックセンテンス」と呼ばれるパラグラフ内で先行するリード文です。
つまり、トピックセンテンスというのは、パラグラフを一つの主張の塊とみなしたときに、その全体はいったい何について、何を言おうとしているのかを、先に、わかりやすく一口に概論的に述べた文のことなんです。
たとえば、
市郎は根っからのスポーツマンだ。夏は水泳、冬はスキー、春と秋はテニスと、日焼けのさめる間がない。いちばん年季を入れていたのはスキーだという。
という3つの文で構成された文章を1つのパラグラフとみなします。
この、市郎は根っからのスポーツマンだ。という文がトピックセンテンスで、その他の2つ文が展開部の文となるフォロー文になります。
そう、フォロー文はトピックセンテンスで要約して述べたことを具体的に詳しく説明していくんです。
トピックセンテンスを肉付けしていくようにフォロー文が1つのパラグラフを構築していくときに、トピックセンテンスと関係のない文やトピックセンテンスに述べたことに反する内容がパラグラフに書き込まれてはなりません。
トピックセンテンスはパラグラフを支配し、フォロー文はトピックセンテンスを支援しなければならないんです。
記事を書くときに、書きたい内容は決まっているのに、なかなか上手くタイピングが進まないときには、このパラグラフとトピックセンテンスの組み立てを使ってみることは非常に役立ちます。
まず、思い浮かべる核心をトピックセンテンスにして、短くひと文に打ちこんでやればいいのです。
あとは、そのトピックセンテンスを「問い」として、それは何なのか、何故なのか、どんな例があるのか、同じようなものはどういうものか、言い換えればどういうことか、といった「答え」を続く文として書き加えていく。
そして完成されたパラグラフを次のパラグラフへと展開させていき、全体として1つのテキストを完成させていけばいいんです。
ひとつはっきりしているのは、そのとき、パラグラフの数が多ければ多いほど、そのテキストは長文になっていくということです。
さらに、木下氏によると、1つのテキストがたとえば8つのパラグラフで構成されていたとして、当然そこには8つのトピックセンテンスが書かれていることになるので、その8つのトピックセンテンスだけを並べたときに、テキスト全体の要約文となっていれば、それが最も理想的な文章構成なのだそうです。
国民性の根本的な相違
ただ、もともとパラグラフの立て方というのは、欧米のレトリックの授業で文章論のいちばん大切な要素としてたたきこまれているもので、私たち日本人にとっては間違いなく国語の授業で教わるものでもなく、日本語の表現にそのまま当てはめることのできるものでもないんですね。
そのせいでしょうか、日本語のテキスト構成を書き綴るとき、全てのパラグラフの冒頭第1文にトピックセンテンスをもってくると、ものすごく違和感を感じることになります。
これには理由があって、英語と日本語の文構成の違いを1つのセンテンスで比べてみると本当によくわかるんです。
英語文では、はじめに主語と述語が一括りとなることで、完成された主張がまず冒頭に書かれ、その後に補足として修飾句、修飾語が後に続いていきます。
このような語順なら、言いたいことを後にどんどん付け足していくだけなので、極論的にいうなら、どこまでも際限なく文を続けていくことが出来るわけなんです。
一方で日本語の文というのは、真逆の構成になっていて、話者が本当に言いきりたい述語は最後の最後にくるんです。
文章よりも小さい表現単位としての文の場合には、核となる内容は述語として最後にしか提示されないのに、それらをまとめる文章の単位では、その大切な部分は前にくるということになってしまうなら、言語構築として、整合性が保たれなくなくなってしまうんですね。
ある雑誌のコラムで、すべてのパラグラフの1文目にトピックセンテンスが書かれているのを読んだとき、もの凄い違和感を感じたのと同時に、この作家は、締め切りギリギリまで書けなかったんだなと読み取れてしまったのを鮮烈に覚えています。
では、どうすれば日本語の文章に、欧米語の文章表現のために生み出されたトピックセンテンスの概念を違和感なく上手にとりこめることができるのでしょうか。
まず考えられるのが、トピックセンテンスをパラグラフの中位か、最後尾に持ってくることで対応する方法です。
もしくは、一度書き上げたトピックセンテンスを、下記のように主題文と解説文にバラバラにしてフォロー文のなかに紛れ込ませてしまうというやり方もあります。
エッセイや小説とは違って、理科系の仕事の文章というのは、そこに心情的要素を差し込む余地はありません。
実験研究をもとにした事実や状況と、それに伴う、判断や予測といった研究者の意見だけを、ただひたすらに淡々と現実の情報として、わかりやすく読者に伝達することを目的とする文章です。
これは、このブログ記事の3文目と4文目の文なのですが、太字で示した、
理科系の仕事の文章というのは、(どういう文章なのかというと)わかりやすく読者に伝達することを目的とする文章です。
という文が隠れたトピックセンテンスになっていて、残された文面がフォロー文になっているんです。
文章構成のなかに、さりげなくトピックセンテンスを差し込むことで、パラグラフを自然に構築させていく。
そうすれば欧米圏の人たちのように、冒頭からいきなり声高々に主張しなくても、日本語のネイティブたる多くの読み手たちは、そのなかに潜んだ真意を容易に読み取ってくれるに違いないのです。