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文の締めくくりは複合動詞で表現する  あなたの書いた文がまるで「他人ごと」のようにならぬように 

 

血が通わない言葉

鋭い風刺とあふれるユーモア、言葉の魔術師と呼ばれた日本の小説家、井上ひさし氏。

「言葉を作ったのは人間なのだから言葉は楽しく使うべきである」という持論をもとに、戯曲、小説だけでなく、数多くの文章読本、文章入門書の書き下ろしを遺されています。

 

そして、その遺された数多くの文章読本で、井上氏が必ず取り上げているのが「複合動詞の重要性」についての指摘なんですね。

たとえば、井上氏は「自家製 文章読本」のなかで下記のように述べられています。

「とりわけ日本語の動詞は、そのままで単独で用いると、意味を訴える力が弱いのである。単独で用いたのでは意味が漠然としている。具体性に欠ける。現実と激しく斬り結ぼうとしない。生き生きしない。血が通わない。」

「その大きな原因は、日本語の構文では動詞がいちばん最後に来るせいである。構文全体で意味を拡げるだけ拡げてゆく、あるいは意味をつぎつぎに限定してゆく。その、さまざまな意味(伝達)の盛られた文を、動詞が最後にぴしゃりと完結させてやらなくてはならない。」

「だから動詞一個では力が足りぬということも生じる。(光線は流るるように射した)ではどうも不満足で(射し込んだ)とし、(かろうじて立った)ではなく(立ち上がった)とし、(彼はそれを出した)ではなく(それを引き出した)とするのである。」

ようするに、文全体の最後の最後を締めくくる役目を果たすのに、たったひとつの動詞だけでは余りにも弱すぎるのではないのか、ということなんですね。

「歩く」という動詞を使って文末をぴしゃりと完結させたいのなら、「捜し歩く」「流れ歩く」「渡り歩く」「彷徨い歩く」というように、その時の意味に合わせ、組み立て述語にして補強してやらなければならないということなのでしょう。

名詞的性格

そして、この「自家製 文章読本」を読んでいて、ふと気づいたのが、複合動詞の前の部分が「捜し」「渡り」「彷徨い」などほとんどの単語が「i」音(samayo-i)で終わるものだということです。

「流れ」のように、たまに「e」音(nagar-e)で終わるものもあるのですが、ほとんどが「i」音で終わっています。

そこで調べたのですが、「i」音で終わる動詞の連用形というのは名詞化となることと同じ意味合いを持ち、動名詞と呼ばれているんです。

たとえば、「遊ぶ」という動詞は連用形にすると、「遊び」という名詞形でもあり、「遊び歩く」「遊び回る」という複合動詞の前項となります。

「岩波古語辞典」などでは、動詞の見出し語として、終止形ではなくこの連用形を採用しているらしいのですが、その理由はなにかというと、終止形というのは全活用形のなかでたった1割前後しか使われてなくて、これに対し連用形は、6割に達する使用頻度を持っているらしいのです。

おそらく、古典語にこれだけの連用形が使用されていたということは、長い歴史の中で連用形こそが動詞の基本形であったという国語史的事実の反映であり、日本語の動詞というのは、現在でも、名詞的性格が強く残されているということが理解できるんですね。

だから、私たちが文を書くときに、この「複合動詞の前項は動名詞なんだ」ということをちゃんと認識できていれば、自然に語彙が浮かんできて、組み立て述語をなんなく作れるはずなんです。

「思い出す」「歩き出す」「話し続ける」「愛しあう」「引きこもる」「めぐり逢う」など、前項の動詞を頭のなかで動名詞に切り替えることで、「自発」的に後項動詞は思い浮かんでくるのではないでしょうか。

もちろん、逆の場合として後項動詞が先に浮かんでいれば、あとは適合する動名詞を前項に足してやればいいわけです。

きっと、私たち日本語のネイティブなら比較的容易に複合動詞を生み出せるに違いありません。

大事なのは、前項の動名詞は「i」音で終わり、後項の動詞の終止形は「u]音で締めくくられているのだ、という複合動詞の構造を認識できているかどうかなのではないでしょうか。

(*「自発」 自然に発生してくるということ 自分から発するということではない)

そして、井上氏が説かれるように、「単独で用いる動詞は訴える力が弱い」というのは、まさにその通りだと思うのですが、いくら文のすべてを背負う宿命を持っているとしても、動詞自体が、どうしてそんなに締めくくる力が弱いんだろうという疑問も同時に出てきます。

なぜ、動詞述語だけがそんなに「弱い表現」になってしまうのでしょう。

形容詞にしても、名詞にしても、述語となるなら文末をまとめ上げるために必要とされる力は同じレベルが要求されるはずです。

ただ、たしかに「そのとき、私は本当に嬉しかった」という形容詞述語文や、「ほかの誰でもない、犯人はあの男だ」という名詞述語文なら、動詞述語に比べて力強く纏め上げられているような気がします。

おそらく、その理由として、動詞述語文の表現というのはどこか反省的で、読み手にとっては、どこか「よそごと」「ひとごと」のように感じられるからなのかもしれません。

脈絡を前提とした述語文

日本語のセンテンス(文)というのは、わずか3つしかありません。そう、たった3パターンしか存在しないのです。

①動詞文 「(もう)行く(ね)」 (副詞)動詞(終助詞)

②形容詞文「(ずいぶん)寒い(ね)」(副詞)形容詞(終助詞)

③名詞文 「(また)雨だ 」 (副詞)名詞+だ  


英語の文が常に主語をたてて、それについて陳述を行う「両肢文」なのに対して、上記のように、日本語文は常に何かの脈絡を前提として発せられる、述語だけの「単肢文」です。

日本文法は3パターンの述語文から出発し、次いでこれを補足する要素(主語・補語・修飾語など)を追加していくという方向をとり、補足要素が多くなればなるほど、それだけひとつの文は長くなり、かつ複雑な構造になっていくんですね。

そして、②の名詞文や③の形容詞文というのは基本的に書き手の判断文だと言われています。

つまり、書き手の主観や主張から言葉が発せられて、「AはBだ」「AがBなんだよ」という形で記述及び同定していくんです。

名詞文でいえば、「Aは言い換えればBだ」、「Aというのは要するにBなんだよね」というように、A題目とB述語における指示対象が書き手の概念として同一であることを、導き出した答えとして示しているんですね。

そして、形容詞文にはふたつのパターンがあり、ひとつは「嬉しい」「悲しい」「懐かしい」「うらやましい」などの書き手の情意の直感的な表現が示されるタイプで、もうひとつは「高い」「長い」「寒い」「遠い」「大きい」のように「程度の差」を許すかという基準で考えられるパターンになります。

一見、「程度の差」を表す形容詞というのは「ひとごと」のような感覚で書かれているような感じがしますが、決して、そうではないんですね。

たとえば、「大きい」という形容詞であれば、「この猫」と「あの猫」を「大きさ」という観点から比べて「この猫よりあの猫が大きい」という「程度の差」を判断しているのは、あくまで書き手の主観なわけです。

でも、「走っている」のような動詞の表現だと、「この猫はあの猫より走っている」というような事柄は考えられません。

「程度の差」を表現するには、「この猫はあの猫より(速く)走っている」と形容詞の連用形を差し込むか、もしくは「この猫はあの猫より(速い)」と形容詞述語文にしなければならないんです。

「走っている」という単独の動詞表現が表す性質には「程度の差」はありえなくて、書き手の主観を挟み込む余地のないひとつの事実現象に過ぎないのでしょう。

さらに、形容詞文を例にとると、「私は嬉しい」と言えても、「彼が、彼女が嬉しい」という言い方は出来ません。

形容詞(嬉しい)という「我がごと」の感情を、「ひとごと」「よそごと」の表現には使えなくて、「ひとごと」を言うなら、「彼は喜んでいる」と動詞を用いらなければならないんです。

「歯が痛い」と形容詞で言われれば、聞き手は「大丈夫?」と心配になりますが、「歯が痛むんだよな」と動詞で聞かされると、「他人事みたいに言って、強がっちゃって」と、この人、まだ余裕あるなと思うはずです。

そう、動詞を使うと感情の反省がそこに見えてくるので、どうしても客観的に聞こえるんです。

だから、井上氏は単独で使われる文末の動詞を「まるで、ひとごとだ」と捉え、「生き生きしてない。(書き手の)血が通ってない」と説かれているのではないでしょうか。

最後に、日本語の「たい」という話し手の希望、要望を訴える助動詞について、少し触れてみたいと思います。まさに「我がごと」を強調する表現ですね。

「話したい」「遊びたい」「輝きたい」「走りたい」「動きたい」

ごらんの通り、前項の動詞は連用形となり、動名詞となることで本来の動詞的意義はそぎ落とされ、名詞的性格を強く反映させていきます。

まるで、終止形の動詞のままで「我がごと」の表現は許されないのだという日本語の宿命が、そこにあぶり出されているかのようです。