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文章の魅力的な書き出し②  記憶のなかから導かれる背景的状況

状況的枠組みの提示

作家やジャーナリストたちが雑誌記事やエッセイを書く場合、当然ですが、その紙面のスペースは限られています。

限られた紙面の中で簡潔に効率よく読み手に情報を伝えるために、彼らは冒頭の書き出しで、ある工夫をするそうです。

それは「状況的枠組みの提示」と呼ばれていて、これから述べることがらの背景的状況をいきなり冒頭で提示するという手法です。

ハードボイルド小説の書き出しで目にされたり、シリアスタッチな刑事ドラマの語り出しなんかで耳にされたことがあるかも知れません。

 

私が律子に出会ったのは、2年前の、乾いた静かな夏の日のことだった。

 

ジュリーの愛称で知られる沢田研二が京都・河原町にあるダンス喫茶「田園」でボーイをはじめたのは、昭和40年のことでした。

 

ふたつの例文ともに、このあと「2年前の夏の日」、「昭和40年」について述べられていくのではありません。

あくまで「律子」と「沢田研二」という人物を中心に物語は展開していくことになります。その物語の背景的な状況、つまり時間と場所の「枠組み」を「~だ」の部分で特定しているんですね。

そう、この種の書き出し文は、話の本筋に入る前にその背景となることがらと、その時間を提示するという重要な機能をはたすものなんです。

いずれも「AはBだ」という名詞同定文なのですが、本来ならば、Aの部分には既知、つまり、読み手にすでに知られている情報がこなければなりません。

「は」の前にくる内容は既知という「前提」で示され、その答えとなるBの部分に未知の「新情報」が置かれる表現こそが、「は」文の本来のあり方なんです。

Bには「焦点」とよばれる新情報の答えが示されることになるので、読み手に最も注目されることになります。

さらに、そのBの答えは文脈的に続く次の文のAの意義へと変わって、今度は前提的役割をはたすことになるんですね。

読み手の立場からすると、既知を踏まえて未知の情報を得る、知ってしまった情報は今度は既知になる、ということが言えます。

「順次新たな情報が付け加えられて順調に流れている情報」が繰り返し提示されることで文脈は形成されテキストは完成していくのです。

ですがどういうことでしょう。ふたつの例文の「は」文では、冒頭でいきなり新情報が提示されているではありませんか。

追憶のカケラ

それではさらに、枠組み提示された「書き出し」の例文を見ていきましょう。


清凉寺の所蔵する「釈迦如来立像」に対して、文化庁が国宝指定のための調査を行ったのは、昭和28年7月29日のことでした。

 

遠い席にボーイが音を立ててお茶を入れてる間、総理は通訳に言葉を待たせていた。

 

その日の彼女は、トックリセーターの首に金のペンダントを下げていた。 


じつはこれらの冒頭文は、未読の「が」ではなく既知の「は」を持ってくることで、書き手の「回想」から始まり焦点につながるセンテンスになっています。

いずれも、「~は」の後に見えない「そう、確か~のことだった」という語りはじめが内在していて、完了形でくくられているのです。


調査を行ったのは、(そう確か)昭和28年7月29日のことだったと思う。

 

総理は、(そう確か)通訳に言葉を待たせていたよね。

 

その日の彼女は、(そう確か)トックリセーターの首に金のペンダントを下げていたような気がする。 

 

そうなんです、まず冒頭で確かそうだったと、自己確認するように思い出された記憶を、読み手に提示しているんですね。

その表現により、読み手は自然に書き手の意図を読み取り、違和感を抱くことなく背景的状況をイメージすることができるのです。

おそらく、書き手の「記憶の風景」という背景的状況の提示を、読み手はノスタルジックな共感を持って受け入れてくれるのでしょう。

文章を書き進めるにあたって、読み手が予測しにくい情報は、通常はあらかじめ導入しておいて徐々に活性化させるという手順が必要なのですが、その手間を省いて、あたかも予測できるかのように提示することができるのが、この「状況的枠組みの提示」という手法なのです。

 

ちなみに、ジュリーこと沢田研二はあくまでボーイとして京都の繫華街にあったダンス喫茶「田園」に勤めていたのですが、ひと月もすると、東京から訪ねてくる芸能関係のスカウトたちが店に大勢押し寄せることになります。

当時のダンス喫茶というのは、ショーパブやライブハウスのことで、多くのバンドや演者がここでライブ活動を行っていたんですね。河原町通りと仏光寺通りが交差するその場所には、今はファミリーマートが建っています。

沢田研二が持つその美貌は他に類を見ることないくらい際立っていたらしく、なんとか自分の事務所でデビューさせたいスカウトたちの執念は相当なものだったようです。

本人は、どうしても人前で歌うなんてことは出来ないと最初は徹底的に拒否していたようで、「じゃあ、歌わなくていいから、マラカスなんかを鳴らしてステージの端に立ってるだけでもお願い」と言われて渋々引き受けたのですが、やはり次第に歌わされることとなり、数日もすると、店の前は入りきれない若い女性たちで溢れかえっていたんですね。

決して大袈裟な話しではなく、沢田研二の所属するグループサウンズが「田園」のステージに立っているときは、京都市内中の若い女性たちが店に押し寄せたために、まるで街から女性たちの姿が消えてしまったかのようだったのです。

 

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