京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

文章の魅力的な書き出し①  それは心地よいリズム感

早く問題の核心へと

仮に、名前も知らない人の論文やエッセイをあなたがこれから読もうとしているとします。

その文章の書き出しの印象は、まさに、初対面の人に会ったときの第一印象と同じような感覚がするのではないでしょうか。

たぶん、「魅力的な書き出し」で書かれている文章なら、その先を読んでみたいと感じるに違いありません。

でも、書き出しに難があり、受け入れられなければ、読み取り行為をあなたは投げ出してしまうことになるのでしょう。

文章の書き出しは、持って回った冗長な前置きを続けるよりも、単刀直入に本題に入ってしまうほうが好感度が高いということがよく言われます。

たとえば、文章の冒頭表現については「落語」というものに学ぶことが多く、共通する面もずいぶんあるようです。

どの落語家も「エエ毎度バカバカしい・・・・」といった掴みをほんの一言か二言話すだけで、いきなり「オーイ熊さんや」などと本筋に入ります。

序論みたいなものをクドクド話していてはダメなようで、なるべく早く問題の核心に触れ、客を自分のペースに引きずり込んでしまうのです。

さらに、人というのは、遠い世界のことよりも身近なことに、自分に関係の薄いことよりも直接関係していることに、抽象的なことよりも具体的なことに高い関心を抱いているということを忘れないように、心掛けられているということなんですね。

まず最初に客たちの関心のより高いものを材料にして、なるべく具体的に取り上げ語ることができなければ、たちまち観客たちの興味というのは消え失せていってしまうらしいのです。

ただ、共通点の多い「落語」と「文章」ではあるのですが、じつは、「落語」という話し言葉では表現できない「文章」という特有の形式表現だけが可能にする「魅力的な書き出し」の方法がひとつだけあります。

文体とリズム

少なくとも他人に読んでもらうことを目的とした文章を書くのであれば、まずその「内容」というものがなければならないと、よく言われます。

でも、エッセイ風のブログ記事に見られるように、べつに内容なんかなくても、気分のままに書かれている文章で魅力的なものはたくさんあります。

それは、「文体」表現そのものを内容としているからなんですね。たとえば、純粋に「音」だけを楽しむ音楽の聴き方があるように。

文章だけが持つ「文体」という表現スタイル。魅力ある文体で書きはじめられた文章ならば、読み手はきっとその続きが気になって仕方ないはずです。

そう、その文体の持つ魅力を突き詰めるなら、ひとつの終極点として、たぶん心地よいリズムとか調子といった類にたどり着くのかも知れません。

名文で知られる作家やジャーナリストたちが完成させた文体は、修飾語の並べ方や句読点の打ち方はもちろん、すべてのリズムがその書き手固有のリズムによってのっぴきならず厳選されているといいます。

では、まずその超一級のリズムで表現されている書き出しの例文を見てみましょう。

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。   (川端康成『伊豆の踊子』)

いかがでしょうか、この、今にも激しい雨がこの身に降りかかってくるような臨場感。

川端康成が少年時代、意味はわからなくとも、ただ、その言葉の響や文章の調をつかむために「源氏物語」や「枕草子」を貪り読んでいたというエピソードは有名な話しですが、この歴史的文豪は、その少年時代を回顧し、次のように書き残しています。

「今思って見ると、そのことは私の文章に最も多く影響しているらしい。その少年の日の歌の調は、今も尚、ものを書くときの私の心に聞こえてくる。私はその歌声にそむくことは出来ない・・・・」

そして次は、魅力的な文体で名高い女流作家の、書き出しから最初のパラグラフまで、見事に調和された冒頭の状況描写を見てみたいと思います。

十二月二十五日の午前五時、メイン・トップ・スクウナ型六十五噸の海神丸は、東九州の海岸に臨むK港を出帆した。目的地は基処から約九十海里の、日向寄りの海に散財している二三の島々であった。島からは、木炭と木材と、それから黒人(くろうと)仲間で五島以上だと云はれる非常に見事な鯣(するめ)が出る。    (野上弥生子『海神丸』)

やはりあの辺りの鯣は最高なんだなと再認識させられ、死ぬまでになんとしても、鮮度のいい状態で食したいという思いが溢れでてくるパラグラフです。

さらに続いて、今度は名文で知られるジャーナリストたちの魅力ある書き出し文を見てみましょう。

枯れ葉のにおう山の遍路道を歩いてみたい、潮風に流れるはぐれトンビを追って海辺の道を歩いてみたい、そんな思いにかられた時から現代のお遍路は始まるのだろう。   (辰濃和男『新風土記・高知県』)

ですが、絶妙なリズム感を携えたこのセンテンスも、「現代のお遍路は」という主題を前に置き換えるだけで、ただの平凡な一文になってしまいます。

現代のお遍路は、枯れ葉のにおう山の遍路道を歩いてみたい、潮風に流れるはぐれトンビを追って海辺の道を歩いてみたい、そんな思いにかられた時から始まるのだろう。

もちろんこのように置き換えても論理的におかしくはないですし、わかりにくいわけでもありません。でも朗読してリズムを取ってみると、明らかに違いがわかります。

やはり、センテンスのリズム感を大切にするなら、短い主題や主格は、できるだけ文末にある述語の近くに置いた方が問題なさそうですね。

では、もうひとつの書き出しの実例を―

遠い席にボーイが音を立てて茶を入れている間、総理は通訳に言葉を待たせていた。自分の前におかれてあったマイクを、自分で隣の通訳の席へ移した。そしてまたしばらくすると、椅子から体を折り曲げて手を伸ばして、床にうねっていたそのマイクコードをひと揺りさせて真っすぐに直していた。こういうことが気になる人らしい。  (門田勲『外国拝見』)

見事に描写された最初の一行で、静寂につつまれた広いラウンジの様子だけでなく、その場に漂う空気感までも感じとることができます。

この記憶に刻み込まれるような始まりの一文によって、登場人物である総理のこのあとの動きを、読み手は強く注目することになるのです。

そして、ここでもまた同じことが言えます。

総理は、遠い席にボーイが音を立てて茶を入れている間、通訳に言葉を待たせていた。

と表現してしまったら、全てが台無しになってしまうということを。