こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

複雑な文の流れを滑らかに結合させる潤滑油 それは抽象名詞と形式名詞

内の関係と外の関係

前回に引き続き、今回も連体修飾節を使った文章表現にこだわりながら、その本質を分析していきたいと思います。

たとえば、指にルビーの指輪をつけた(女優)という文を例にすると、名詞(女優)を詳しく説明・限定し、修飾しているのが(指にルビーの指輪をつけた)という連体修飾節と呼ばれる成分になります。

このような連体修飾節を使った表現方法には、じつは、二つの意味合いを持つ種類があるんですね。

A)さんまを焼く(シェフ)がいる。

B)さんまを焼く(匂い)がする。

「さんまを焼く」という連体修飾節がAでは(シェフ)を、Bでは(匂い)という名詞を修飾しています。

「さんまを焼く」という修飾節は表面上では全く同じ役割を果たしているように見えますが、そこに含まれた意味合いは大きく異なるのです。

Aの文は、シェフがさんまを焼く。という文と対応させることが出来ます。

名詞「シェフ」は、連体修飾節内の述語である「焼く」の補語にあたるからです。

これに対し、Bの文では、「匂い」という名詞は「焼く」の補語ではないので、同じように置き換えると日本語として非文法的になってしまうんです。

匂いがさんまを焼く。 ✖

Aのように、修飾される名詞が修飾部の述語の補語に置き換えられる連体修飾節を(内の関係)、Bのように置き換えられない連体修飾節は(外の関係)と呼ばれ区別されているんですね。

これは言い換えれば、あくまでも「シェフ」という名詞は語順を入れ替えられているだけで、「焼く」という述語の支配下に置かれているのには変わりはないのに、「匂い」という名詞は「さんまを焼く」という成分と対等な関係にあるということが分かります。

つまり、格助詞(が・を・に・と・・・・)を伴った名詞たちはどこまでも文末の述語の支配から逃れることは出来ないのに、逆に、係助詞(は・も・さえ・・・)を伴った名詞たちは述語に支配されるのではなく、あくまでも述語に対して対等な関係にある存在なのだということと同じ理論になるのです。

抜群のリズム感

ここで、(外の関係)タイプの連体修飾節がほどよく含まれた、作家・金原ひとみさんのエッセイを参考にして、(外の関係)というのがいったいどのような構成になっているのかを、その名文を紐解きながら説明していきたいと思います。

金原さんが書かれたこのエッセイは、3年前頃のヤフーニュースでその一部が掲載されていた記事なのですが、あまりにも、連体修飾節を見事に駆使したスラスラと流れるような文章で仕上げられていたので、思わず保存してしまったのでした。

朗読してみると、もの凄い速さで言葉が流れていくんですね。

読点の打たれている場所、まるで計算されたかのようなテキスト全体の構成など、抜群のリズム感で表現されているさまを感じさせられるんです。

日本に一時帰国してフランスに戻り、シャルル・ド・ゴール空港から自宅にタクシーで向かう(道すがら)、ほっとするのではなく、なぜここにいるのだろうという(思い)が芽生えたんです。

それは次第に増幅して『もうここにはいられない』という(直感)から帰国を決意しました。最後の1年は鬱に襲われてボロボロでしたね。

そういう状況下で他人の死に強く共鳴してしまう(メンタリティ)に陥り、自分と切り離して考えられなかった。

例えば、自宅近くの広場で飛び降り自殺があったと聞いた(時)、その話にずっと引きずられてしまって。

心のどこかで、自分もそうなるのではないかという(感覚)を持っていた(の)だと思います。

帰国後の1年は様々な変化に戸惑ったり苛立ったりしていた(の)で、その2年間を書けたのは、記録としてもよかったです。  【金原ひとみ】

 

 

いかがでしょうか。読んでみて気づいたのは、テキスト全体が速いスピードを持って流れているために、一つひとつの文が文章全体の「最後の1文」に力学的にかかっていこうとするバイアスが強くなっているんじゃないかということです。

「その2年間を書けたのは、記録としてもよかったです。」という最後の1文がやけに印象に残り、なんだか最後に救われたような余韻が残ります。

やはり、文章の途中過程がリズム感をもって、スラスラと流れるような表現になればなるほど、それを受けとめる全体の締めくくりである「結末」が読み手に強く注目されることになるのは、おそらく間違いないのでしょう。

引っ掛かりながら最後の文に向かうのと、流れるように向かうのでは、それこそ雲泥の差がでるのでしょうから。


なぜここにいるのだろうという(思い)  

他人の死に強く共鳴してしまう(メンタリティ)

自宅近くの広場で飛び降り自殺があったと聞いた(時)

自分もそうなるのではないかという(感覚)

 

金原さんのこのエッセイに書かれている並べられた連体修飾節は全て(外の関係)です。

修飾されている「思い」「メンタリティ」「感覚」という名詞群は、思考や感情内容を表す名詞で、「シェフ」のように具体的な実像イメージを伴うものではありません。

思考や感情を表現する名詞群は実体を伴わない抽象名詞なのです。

さらに、「時」という名詞と同じく、

という感覚を持っていた(の)

戸惑ったり苛立ったりしていた(の)

で使われている「~の」という準体助詞や、「こと」「もの」という形式名詞は、従属節の動詞文を名詞化させる文法的職能を持ちます。

つまり、名詞化された従属節は名詞と同じように主節の文の成分になることが出来るんですね。

麒麟が現れる →(名詞化) 麒麟が現れる(こと / の)

町衆たちは 京の街に麒麟が現れる(こと / の)を 待ち望んでいた。

形式名詞も抽象名詞と同じく実体を持ちません。「京の街に麒麟が現れる」という従属節と同じ内容を、あくまで形式的に繰り返し、名詞化させ、「待ち望んでいた」という主節につなげる構文的職能を持つのです。

その影のような職能のおかげで、従属節と主節は読み手に意識されることなくスムーズにつながることが可能になるんです。

抽象名詞や形式名詞は、きっと、従属節と主節を滑らかに結合させるための潤滑油のような文法的役割を果たしているに違いありません。