京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

どうすれば読者をその記事に夢中にさせることが出来るか 

文章を読ませる推進力

たとえば、ブログなどに記事を書くとします。どうせ書くのなら、その時に、どうすれば、読者をその記事に没頭させることが出来るか。どう書けば、読者を、読んでいるうちにその文章に引きずり込ませてしまうことが出来るようになるのでしょうか。

日本語学者の石黒圭氏は、それは、「情報の空白」を自在に操るように文章を展開させることで可能になるのだと論理提示されています。

 

まず、世に出ている文章というのは大きく分けてふたつに分かれます。

ひとつは、新聞記事や小説などに用いられている描写文と呼ばれるもので、これは「時間」を推進力として、ある「場面」のなかで起こる一連の動きが描写されていきます。

「それで?」「それから?」といった問で後続文脈に来る内容を探りつつ読み手は文章を理解していくんですね。

そしてもうひとつが、「場面」という制約がなく、時間軸が存在しないエッセイや論説文の場合で、今回、石黒氏が説かれている「情報の空白を操る」という手法によって効果的となる文章表現です。実は、今回はここにこだわってみたいんですね。

描写文と違って、時間軸で展開することのない論説文の文章に必要とされる重要な推進力は、書き手が投げ出した「問」に対して、一つ一つ答えを予測していくという読み手の思考展開のなかにあります。

「どうして?」「どうやって?」といった問を頭の中に思い浮かべつつ、読み手はその答えを自分なりに想定しながら文章理解を進めていくわけです。

優れた書き手による物語の展開が、これからどうなっていくんだろうと、私たちにドキドキ感、ワクワク感をもたらしてくれるように、論説文において、この情報の空白を自在に操れるようになれば、次に何が起こるのか、次に何がくるのかと予測を繰り返させることで、知らず知らずのうちに読み手を夢中にさせることが出来るのだと石黒氏は言います。

そうした「情報の空白を操る」文章を石黒氏は「謎解き型の文章」と名付けられているのですが、これは、段階を追って読み進むにつれて謎が徐々に解けていき、まるでロールプレイングゲームをしているような感覚に陥ることから、そう呼ばれるようになったのでした。

「謎解き型の文章」を書くコツは、連用修飾節や連体修飾節を後続文に転出させ、その転出させた部分を焦点化することです。

たとえば、

「先日、井伏鱒二の山椒魚という短編小説の作品を読んだ。」という文の連体修飾部を後ろに持っていき、

「先日、ある作品を読んだ。井伏鱒二の山椒魚という短編小説の作品だ。」と、謎解き型らしくするわけです。さらに転出した部分を焦点化するような表現をくわえ、

「先日、心に残る衝撃的な作品を読んだ。井伏鱒二の山椒魚という短編小説の作品だ。」とすれば、より謎解き型として効果的に表現することが出来ます。

当然、意図する文章展開によっては、初めの「先日、心に残る衝撃的な作品を読んだ。」のすぐ後に、答えの文を持ってくる必要はどこにもありません。

「先日、心に残る衝撃的な作品を読んだ。有名な作品なので以前から気にかけてはいたのだが、なかなか手に取るまでには至らなかったのだ。なぜなら、そのタイトルがなんとも生々しく・・・」というように、しばらく謎を解き明かさないように引っ張ることで、読み手の意識下に「答えの予測」を留めさせておくことも出来るということです。

要は、もったいつけて答えをなかなか言わないようにするという手法なんですが、一番難しいのはやはり、謎を明かすタイミングですね。

わざとらしくならないように、そっと答えを投げ出す間の取り方がむずかしい。それを、自在に操れるかどうかが重要になってくるわけなんです。

ボケとツッコミ

心理学の分野でしばしば見られるのが、文章理解を問題解決過程ととらえる文章理解観です。

その中でもとくに興味深いモデルとして提唱されているのが、QUESTと呼ばれる疑問解決モデルらしいのです。

名称ではなく、この理論に注視してほしいのですが、これによると、読者は文章を読んでいるときに感じた疑問を自問し、それを読者自身の独自の推論によって解決しながら読み進めているんだとされているんです。

ということは、書き手は、そこまでに自分が書いた内容に対して、読み手が次に疑問を抱くであろうポイントを予測しながら文書を書き進めることが出来れば、先に手をまわして、情報の空白を操れるということが可能になるのではないでしょうか。

まあでも、「情報の空白」とか関係なく、基本的には、書き手は、読み手がいまどこまで内容を理解している状態なのかを把握しながら文章を書き進めなければならないはずなんですけど、これがなかなか難しいのです。

また、ドイツの文学者イーザーは、文章に見られる空所や否定を契機に、読者と文章の相互作用がなされているという議論を展開していて、文章を理解するということは読者と文章の対話によって成されているのだと説いているんですね。

そしてこれらをもとに、現在の日本語学で定説となっているのが、「自問自答による理解モデル」です。

まさに文章を読む言語行為とは、文章の表現に即しながら自問自答を繰り返す言語行為であり、大小取り混ぜたさまざまな「問」と「答」で構成された文脈を独自に紐解いていくことこそが核となっているんです。

逆にいうと、良質な文章を読ませようとするなら、書き手はちゃんとわかりやすい「自問自答」で構成した上で、読み手に差し出さなければならないということになるんです。

そう、歓喜に包まれたステージで、本来は二人でやる漫才の「ボケ」と「ツッコミ」をたった一人でこなすように。

読み手に、その自問自答(ボケ・ツッコミ)の「やりとり」そのものを読ませるのです。

つまり、真に伝えたい内容(ネタ)を包括的に提示することで理解させ、興味(笑い)を抱いてもらうように持っていかなければならないということですね。

漫才における「ボケ」の役割を果たす「問」となる切り口、そう先行文というのにはさまざまなパターンがあり、たとえば、


株式市場というのは、近代民主主義のなかでどのように発展してきたのか。

日本人というのは、はたして、江戸時代からそんなに長時間働いていたのだろうか。


などといった、直接的に、誰が読んでもわかりやすく「問」になっている問題提起文から、


京都で環境破壊が進んでしまったのにはいくつかの理由がある。

一連の報道を見ていて納得できないのは省庁幹部の発言だ。


という、環境破壊のいくつかの理由とはなにか、なぜ省庁幹部の発言が納得できないのか、といった誘発的な問題提起文まで、さまざまなパターンが考えられるんですね。


テキスト全体における仕上がりイメージ的にいうと、まず、最初のトピックセンテンス(リード文)として問題提起文が投げかけられ、それに対するいくつかの「答」が何行かで補足文として、付け加えられていく。

それによって一つのパラグラフ(段落)が出来上がり、今度は、いくつかのパラグラフのまとまりで文章全体が仕上げられていく。

いくつかの小さくて細かい「問」と「答」で纏められたひとつのパラグラフ。

それが連なり、テキスト全体を完成させていくとき、ふと気づくと、テキストはすべてを統一するかのように、大きなテーマとなる「問」と「答」が自然にあぶり出すように提示されている。そんなイメージでしょうか。