こうへいブログ  京都案内 そして スラスラと流れるような文章が書けるようになりたくて

京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

奥津敬一郎 著「(ボクハ ウナギダ)の文法」 長い間抱えていた疑問を解き明かしてくれた一冊

常に例外がつきまとう法則

日本語の文法というのは本当に不思議なモノで、辞書のレベルでは決定しきらない例外が、それこそたくさん出てきます。

たとえば、次に出てくる文のような、動詞の格支配の例を見てみてください。


A)鯛を刺身に作る。   ?鯛を作る。

B)一人娘を嫁に取る。  ?一人娘を取る。


このA、B文では「作る」と「取る」という動詞が格体制をとっていますが、いずれも「鯛ヲ」「一人娘ヲ」というヲ格との結びつきは、間接的なものとなっているんですね。

「刺身二」「嫁二」という、二格と動詞が先に結びつき、その全体に対してヲ格が結びついているのだと、例文が掲載されている文法書には書かれています。

「鯛を【刺身に作る】」・「一人娘を【嫁に取る】」というように、ヲ格の存在はあくまでも二格の存在が前提されているということなんです。

本当にそうなのでしょうか?

本来、日本語の動詞文は述語を中心として構成されていますので、それぞれの格は述語に対して対等であるはずで、語順は入れ替え可能となっています。

たとえば、

C)子供が 静かに 本を 読んでいる。 という文の場合、

D)静かに 本を 子供が 読んでいる。

E)本を 子供が 静かに 読んでいる。  

〇本を読んでいる。 〇子供が読んでいる。 〇静かに読んでいる。

 

というように、述語「読んでいる」を中心としてそれぞれの格が直接的に結びつくことで、自由自在に語順を入れ替えることが出来るのが日本語の動詞文のはずなんですね。

ところが、A、Bの文ではそれが許されないのです。これは、いったいどのような理由からくるものなのでしょうか。

まず、私がその答えを得るために参考としたのが、中島文雄著「日本語の構造」に記されていた、統語法から導かれた理論でした。

中島氏によると、「日本語は助詞によって格を示すけれども、その格の並び方には決められた順序がある」と説かれていて、「ガ・ニ・ヲ」という、決まったその順が入れ替わると、格を伴った補語の役割を果たすことが出来ず、後になってしまった格は副詞的な役割にかわってしまうのだと書かれているのです。

つまり、

F)鉛を 金に 変える。

というA、Bと同じ構造の文を例にすると、本来「鉛を」というヲ格は、述語「変える」にもっとも近い位置になければならないのに、「金に」を間にはさんでしまっていると言うんですね。

そのために、「鉛を変える?」では意味は通じなくて、「鉛を【金に変える】」という構造のセンテンスとなり、「金に」は、もはや補語ではなく副詞に変わってしまうのだと説明されているんです。

ただこれだけだと、格の並び方には決められた順序があるという理屈なのに、「子供が 本を 静かに 読んでいる」という二格を最後に変えた文に組み立てられた場合に、何も支障がないというのもなんだか腑に落ちません。

「本を読んでいる」と普通に意味が取れるので、語順が変わったために「本を」が副詞に変わってしまっているんだと言われても、どうしても納得できないんですね。

上に例を示したように、決して「子供が 本を 【静かに 読んでいる】」という構造ではないからです。

ではなぜ、「本を読んでいる」とは言えるのに、「鯛を作る」「一人娘を取る」「鉛を変える」とは言えないのでしょうか。その動詞の内在的な意味に理由があるのでしょうか。

「作る」「取る」「変える」といった文の中核を成す「述語」という絶対的支配者が、「刺身に作る」「嫁に取る」「鉛に変える」というように、あくまでも二格、いや副詞と呼ぶべきでしょうか、とにかく、それを伴い連語にならないと「述語」になり得ないなんてことが許されていいのか、という私の思いはいつまでも消えることはありませんでした。

まだ疑問は払拭できずに

そして次に手にしたのが、三原健一著「構造から見る日本語文法」という一冊です。

第5話「私は局長の行動を不審に思った」という章でA、B文と同じような構造文について詳しく述べられていました。

三原氏は、

G)私は局長の行動を【不審思った】。

H)設計者は白砂を【川見立てて】庭を作った。

といった「に」形だけではなく、

I)直人は旧友の好意を【ありがた感じたようだった】。

J)あいつは人生を【軽考えている】。

というような、「ありがたく・軽く」のようなイ形容詞の連用形である「く」形も例文として取り扱っています。

これら全ての文も、

G)?不審私は局長の行動を思った。

H)?川設計者は白砂を見立てて庭を作った。

I)?ありがた直人は旧友の好意を感じたようだった。

J)?軽あいつは人生を考えている。

 

と語順を入れ替えると、日本語としてはかなり不自然に感じられますし、普通の日本人なら、まずこんな言い方はしないでしょう。

この語順を入れ替えられない理由として、三原氏はヲ格に注目しています。

G)私は局長の行動を不審思った。という文は、「私は局長の行動不審に思った」という表現に変えることは出来ません。

つまり、「行動を」の「を」という助詞を脱落させると日本語としては通用しなくなるという説明なんです。

ですが通常では、格助詞脱落は会話体に頻発する現象であり、「が格」と「を格」はほとんどの場合、脱落させることが出来るのです。

 

K)ひろちゃんの行動を不審に思うなんて、どうかしてるぞ。 

→ ひろちゃんの行動、不審に思うなんて、どうかしてるぞ。

L)あいつの言い方がなんか気に入らなくてさ。 

→ あいつの言い方、なんか気に入らなくてさ。

 

つまり、三原氏は格助詞脱落をすることが出来ない、G)私は局長の行動を不審思った。という文の「を格」を伴った「行動を」という文節は補語ではないと言っているのです。つまり、格助詞ではないという主張ですね。

「局長の行動を」という名詞句は、言い換えれば、「局長の行動について言えば」という意味合いを持つ提示機能を果たしているにすぎないのだと。

要は、そこにはもう「を」格の対格としての本来の機能はどこにもなく、「は」や「も」といった係助詞の役割と同じような取り立て機能を携えているのだと言いたいのでしょう。

そこにある深層表現は、「局長の行動について言えば(どう思ったかというと)【不審思った】」という文に置き換えられるということです。

【不審思った】、【川見立てて】、【ありがた感じたようだった】

やはり、三原氏の理論でも、あくまでも「に」形や「く」形が動詞と一体とならないと述語として成立しないのだ、という答えになっているのです。

何を読んでもどうも腑に落ちず、この件に関して、私のモヤモヤとした気分は長い間晴れることはありませんでした。

日本語の文法論とは、まさに例外のオンパレードであり、だからこそ、いつまでも確立されない分野なんだと記された文法入門書なんかを思い出しては、無理やりに納得していたんですね。

ついにたどり着いた一冊

ところがです。ついに、心のなかの霧がはれていくように、長い間抱えていたこの疑問を払拭させてくれる一冊の本に出会ったのです。

そう、それこそが、奥津敬一郎著「(ボクハ ウナギダ)の文法」という文法書なんです。

奥津氏はこの著書のなかの「変化の結果を表す(に)は何か」という項目で、二格と述語が切り離せないこの問題について、見事、答えを出されているんですね。

「ボクハ ウナギダ」という文は、よく言われる「ウナギ文」のことですが、これは

ボクハ ウナギ ヲ 食ベル

ボクハ ウナギ ヲ 釣ル

という動詞文が、

ボクハ ウナギ ダ

という、「AはBだ」形式の名詞文に省略されて表現されています。

でもこれは、たとえば友人と料理屋に行って、「君は何にする?」「そうだな、ボクハ ウナギ ダ」というやり取りがあって、はじめて意味が取れる言語です。

つまり、あくまで先行文脈依存型の言語であって、そのようなコンテキストなしに、突然に「ボクハ ウナギ ダ」などと言うことは出来ません。

ただ、話し手と聞き手の間にそれが了解されてさえいれば、「ヲ 食ベル」という言葉をわざわざ繰り返さないで、「ダ」という一文字で示すことの出来るきわめて合理的な述語表現だとされているんです。

この「ダ」という助動詞は名詞だけにつくもので、動詞や形容詞といった用言の後にはつけられません。

むしろ、助動詞「ダ」というのは上に見たように、その用言の代用としての役割までを果たすことが出来るのです。

助動詞「ダ」は、名詞につくことで「刺身だ」「うなぎだ」というように見事に名詞述語文の述語概念を創り出します。

だからこそ奥津氏は一冊の本に仕上げるほどの熱量を持って、「ダ」という助動詞を追い続けられているんですね。

そんな奥津氏は、「刺身二」「嫁二」などの「二」を、まぎれもなく「ダ」の活用形だと主張されているのです。そう、「二」は格助詞なんかではないんだと。

ここで、「AガB二ナル」「AヲB二スル」という文の「二」を中心として、奥津氏の主張の根拠に迫ってみましょう。


N)康平ハ 歌手二 ナッタ

M)支配人ハ 康平ヲ 歌手二 シタ


奥津氏は、この「二」を「ダ」の活用形だと考え、さらに次のように「ダ」型文を補文とする埋め込み構造として示されています。

そこに説かれているのは、N、Mの文に【康平ガ 歌手ダ】という名詞文の補文が埋め込まれているという理論なんです。


O)康平ハ 【康平ガ 歌手ダ】 ナッタ

P)支配人ハ 康平ヲ 【康平ガ 歌手ダ】 シタ


O、P文はもちろん深層文ですので、これらを表層文にしなければなりません。

主文の主語、または目的語と同一の補語の主語である「康平」を消去し、また音韻規則によって「ダ」を「二」または「ト」に変えなければならないのです。

これらの変化をまとめて示すと次のようになります。


O)康平ハ 【康平ガ 歌手ダ】  ナッタ

    康平ハ                    歌手二/ト ナッタ

 

P)支配人ハ 康平ヲ 【康平ガ 歌手ダ】  シタ

   支配人ハ    康平ヲ      歌手二/ト シタ


とすれば、これらと同じような理論で、

      鯛ヲ 【鯛ガ 刺身ダ】 ツクル 

      鯛ヲ     刺身二   ツクル

と示すことが出来るはずです。

つまり、切り離せないのは【刺身に作る】という連結ではなくて、【鯛を刺身に】という組み合わせだったのです。

この理屈ならば、「作る」という主文の述語は単独でセンテンスの中心となって鎮座し、【鯛ガ 刺身ダ】を深層表現とする【鯛を刺身に】を連結支配して、ちゃんと取り込んでいることになるからです。

さらに、あいつは人生を【軽く考えている】という形容詞文でも同じことが言えて、【軽く考えている】という連結ではなく、【人生が軽い】が繋がっているととらえることで全ては解決するのです。

あくまでも、センテンスの主役は「考えている」という述語であり、「あいつは」「人生を軽く」がその支配下に置かれているんですね。

「人生を軽く あいつは 考えている」というように語順を入れ替えたとしても、表現に何も問題がないのは、誰もが見て納得するところではないでしょうか。