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「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」 味わい深い文章表現を分析してみる

文学の街

作家・井上ひさしさんの講義による「作文教室」が岩手県一関市で開かれたのは、1996年11月15日から17日にかけての3日間のことでした。

このとき、古く美しい建物を活かした文学館をつくろうという、一関ならではの趣旨のもと、「文学の蔵」設立委員会が立ち上げられます。

中学時代を一関市で過ごされたという井上さんは、その恩返しのためにプロジェクトチームの一員として企画段階から参加されました。

「文学の蔵」の建設基金づくりのために、まったくの無報酬というボランティアの形で講義もされたんですね。

その講義の内容は、文章を書く上でまさに宝箱のような密度の高いものとなったため、主催者側はこれをなんとか形に残そうと動き出しました。

そして、井上さんのその講義録音をもとに編まれた「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」が新潮社より発刊されることとなったのです。

井上さんの「作文教室」に参加された141人の一般の受講生の方たちは、じつにさまざまな地域から一関に足を運ばれています。

岩手県内、東北各地だけでなく、東京や横浜などから、この講義を受けるためにやってこられたという人も大勢いらっしゃいました。

じつは、この一冊の本になった井上教室はもう4回目の開催にあたりますので、顔なじみの人も多かったようなんですね。

講義はわかりやすく、かつ具体的に進められていきます。

いきなり核心から入る文章の書きはじめかた、リズム感を伴う読点の打ちかた、接続詞をむやみに使用しないこと、段落の基本的な考えなど、充実した時間はあっというまに過ぎて、講義は3日目の最終日を迎えることになります。

原稿用紙の記入の仕方さえままならなかった受講生の皆さんがいったいどれだけ成長されたのかが気になるところです。

この最終日には、これまでの成果が試される卒業作品が発表されることになりました。

その時の卒業作品が「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」に井上さんの指導添削入りで掲載されています。

どの作文も味わい深く魅力的に書かれていて、井上さんも、「みなさん、本当にいい文章をお書きくださいました。みなさんの文章はもう本当に大丈夫です。今回お書きになったレベルの文章を毎日書かなきゃいけない、というのが、次のステップではあります。ただ、そこから先、一歩踏みあがるかどうかはみなさんの自由でして、私がどうこういうことではありません。みなさん、本当にどうもありがとうございました」と、受講生さんたちに感謝の辞を述べられて、締めくくられているんですね。

作品の域を超えたひとつの文章

あくまでも、順位をつけたり、最優秀賞を選んだりする企画ではないのですが、ただ、その作品群の中で、井上さんによる添削がひとつもない発表作品がありました。

井上さんはその作品を、「作品の域をはるかに超えています。あきらかに物書きの芽がある。少し長いものを書き続けられることをされてはどうか」と講評されています。

それが、S・Hさんという受講生の方が書かれた「ダイヤモンド・ジェラシー」というこの文章です。

その日の彼女は、トックリ・セーターの首にダイヤの粒をちりばめた金のペンダントを下げていた。右と左の手にはダイヤの指輪を一個ずつ。手首のそれぞれにブレスレットと腕時計をはめていた。どちらも金色であった。

テーブルの向こうで、金とダイヤの二種の光が交錯した。コーヒー・カップの手もとでアクセサリーが動く。異様に多い。

「やりすぎだよねえ」いかにも悪趣味との思いをあからさまにして私は言った。すると、「あら、それってジェラシーよ」ダイヤモンド・ジェラシー。にべもない。

意外な言葉を耳にしたとき、心の中ではじけるものがあった。確かに蠢いているある感情。そこに言葉が吸い寄せられていった。

ジェラシー。この言葉のフィルターをかけて自分を凝視する。私は少なからず困惑しながらも、ある爽快感の中にいる。

                   ダイヤモンド・ジェラシー(S・H)

何度も読み返すうちに、この魅力的な文章がいったいどういうテキスト構造になっているのかをどうしても知りたい、という思いが私のなかに芽生えてきました。

「発想」や、その「中身」という真の魅力は、私なんかにわかるはずもないのですが、その「文体」や「文章構成」という目に見える表現方法を分析することは出来るはずだと思ったのです。

そして、何度も何度も読み返すうちに、ついにある法則のようなものに気づきました。

そう、それは言い換えるならば、文章全体のパーツとなる一つ一つの「文」における述語表現(動詞述語文・形容詞述語文・名詞述語文)の種別を、段落ごとに、それぞれいかに組み合わせて表現することが最も有効な達意の表現につながるのか、という問いに対する答えを理解することができたのかも知れません。

もう一度文章を繰り返し、動詞述語文以外の文を太字で提示してみます。


その日の彼女は、トックリ・セーターの首にダイヤの粒をちりばめた金のペンダントを下げていた。右と左の手にはダイヤの指輪を一個ずつ。手首のそれぞれにブレスレットと腕時計をはめていた。どちらも金色であった。

テーブルの向こうで、金とダイヤの二種の光が交錯した。コーヒー・カップの手もとでアクセサリーが動く。異様に多い。

やりすぎだよねえ」いかにも悪趣味との思いをあからさまにして私は言った。すると、「あら、それってジェラシーよ」ダイヤモンド・ジェラシー。にべもない。

意外な言葉を耳にしたとき、心の中ではじけるものがあった。確かに蠢いているある感情。そこに言葉が吸い寄せられていった。

ジェラシー。この言葉のフィルターをかけて自分を凝視する。私は少なからず困惑しながらも、ある爽快感の中にいる。


いかがでしょうか、(動詞述語文以外の)形容詞述語文と名詞述語文、もしくは連体修飾節や形容詞の差し込み表現、それに名詞の投げ出し提示などがちりばめられ、それらが各段落に影響を及ぼしながら主観的に提示表現していることに気づかされます。

表現の量としては決して少なくはない動詞述語文は、あくまで段落の中で補足文的な役割を担っているだけで、それ以外の形容詞述語文と名詞述語文が少し舌足らずの表現ではありながらも各々の段落をまとめ上げているのが手に取るようにわかるんですね。

太字の文だけを繋ぎあわせて文字を追ってみると、まるで、このテキスト全体の要約文を読まされているかのようです。

そうまさに、この二層構造表現こそが良質のテキスト構成の本質なのではないでしょうか。

ちなみに、その他にも、前回のブログ記事でご紹介したように、このS・Hさんの文章の書き出しには、自己確認するように回想された書き手の記憶を読み手に提示するという、読み手がスムーズにその書き出しを受け入れることのできる手法が取り入れられているのがわかります。

 

井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 (新潮文庫)