有題文「は」と無題文「が」
日本語のセンテンスというのは、大きく二通りに区分けすることができます。
それは、名詞句に「は」がついて述べられる「有題文」と、名詞句に「が」がつく「無題文」というように大きく分かれるのです。
たとえば、
a ) 太郎は講演会に来た。
b) 見知らぬ男(✖は / が)講演会に来た。
という文で比較してみると、b)の「見知らぬ男」は、指示対象が特定されていない「不定」の名詞句なので「は」を使うことは出来ません。
「は」を使うには、a)のような有題文にみられる「太郎」のように、指示対象が決められた「定」の名詞句でなければならないんです。
そう、未知の対象に「は」を使うことは出来なくて、特定名詞として扱われているか、もしくは、そこまでの文脈によって読み手に認知されていないと「は」という係助詞は使用できないんですね。
無題文に見られる未知の指示対象には「が」が使用されます。
何かを発見したときにそのまま述べられる現象文や、出来事について客観的に報告される場合、名詞句のあとには「が」で示され続くことになるんです。
下記の文例のように、「が」の使用される文体には新聞の報道文や小説などに多くみることが出来ます。
c) どしゃ降りの雨がふっている。 d) 薄っすらとだけど、男が倒れているのが見えた。
e) 東京発高尾行き下り快速電車がホームを約二百メートル行き過ぎて止まった。
それに対して、「は」で示される主題提示文というのは、書き手の主観がそこに表現された情報提示文なのです。
f) その青年は、持って生まれたその美貌でめぐり合う女性たちを次々と虜にしていったという。
という文例の場合、「その青年は」という主題が【前提】の「問い」となって、「は」以降の節は、その問いに呼応する「答え」の役割を果たしてます。
つまり、書き手は、書き手自身の自問自答のあり様を読み手に読ませることによって論旨をハッキリ伝えようとしているんですね。
だから「は」以降の文脈は、その「問い」に対して絶妙のタイミングで答えられた内容でなければなりません。
その青年は(どうしたかというと)、という「問い」に対して、「持って生まれたその美貌でめぐり合う女性たちを次々と虜にしていった」という「新情報」でもって、読み手の意識をとどまらせることなく答えを提示しなければならないんです。
そう、その「新情報」が読み手がもっとも必要とするものであり、この「新情報」こそが、文の「焦点」と呼ばれる答えにあたる部分なんですね。
読み手はどこまでも「焦点」を追い求めます。そう、「答え」を求め続け文脈を追い続けるのです。
さらに、その「焦点」がつぎの一文では一転して「前提」へと変貌し、さらに次なる答えの「焦点」を求めて問いをぶつけることになります。
かなりシンプルな例文をあげますと、
はとがありを見つけました。 → ありは木の葉につかまりました。 → 木の葉は船になりました。
というように、前提から新情報へ、さらに新情報は前提と変わりゆく文章展開のさまが見て取れます。「既知」から「未知」へ、さらに「既知」から「未知」へと繋がる連鎖展開ですね。
ただ、幼児向けの絵本にでてくる文章展開ならばこのように展開されていくのかもしれませんが、やはり多くのテキスト展開では、同一の指示対象が継続して文の主題となって補足文が肉付けされていき、ある程度の段落が完成されていくなかで、「新情報」は付け加えられてゆくのだと思われます。
ちなみに、今回のこのブログ記事では、「日本語のセンテンスというのは」と冒頭からいきなり「は」ではじまっていますが違和感はあまり感じられないと思います。
これは、記事タイトルやサブタイトルから、「日本語のセンテンス」という名詞句が冒頭に出てくることはある程度予測することが可能だからなのです。
談話の結び
砂川有里子さんの著作である「文法と談話の接点」には、読み手にとってわかりやすい伝達を成功させるには、【順次新たな情報が付け加えられて順調に流れている情報】という流動的な提示が形成されていなければならないと説かれています。
誤解のないように補足しますと、、砂川さんの言う「談話」とは、「話し言葉にせよ書き言葉にせよ、コミュニケーションのために言葉を使うこと」と定義されるものです。
文法研究に対して、その「談話の構造」という研究分野はまだまだ未知の範疇であるらしく、よりはっきりした姿を見せるには、もう少し時間がかかるといわれているんですね。
そんな状況下のなかで、砂川さんのこの著書は多くの国語学者たちから非常に貴重で有益な文献であると推されているんです。
話を戻しますと、逆に、【順次新たな情報が付け加えられて順調に流れている情報】という形でテキスト構成が成されてなければ、その文章は読み取り行為を途中で投げ出されてしまうともいえるのでしょう。
ですが、文章というのは一線上で表現されているのですから、どこかで一端、「新情報」の提示を断ち切って話題の転換をしなければなりません。
でなければ、どこまでも永遠に「既知」と「未知」の連鎖文を継ぎ足していかなければならないことになります。
情報をブツ切りにしてしまって、途中で読み手に投げ出されることもなく、さらに、読み手に意識すらさせることもないように話題をスムーズに切り替える手法はないものなのでしょうか。
それは、読み手がもっとも注目する文の焦点に「それほど重要ではない情報」を提示するというやり方で実現することが出来ます。
下に実例文を見てみましょう。
g) 蒸し暑い夏の日、高い天井の部屋では熱気は上部にたまるので、下部は比較的涼しく過ごしやすくなっています。【お寺や古い民家での昼寝が気持ちよいのは、そのせいなのです。】それに加え、目髪山の住宅の場合には、実はもうひとつ理由があるんですね。
h) 呆れたように男は言い、それが嬉しくてか、またよく喋った。【静江が惹かれたのは、そんなとこだったのかもしれない。】あるとき、男が珍しく静江はんにプレゼントしてあげたいんやと言いだし、祇園近くのデパートに連れ出したことがあった。
g)h)ふたつのテキストともに、【】内の文を境にして、それ以前とそれ以後の談話で主題が変化していることがわかります。
gの文例では、涼を呼ぶための建築構造上の理由が述べられていたのが、【】の文を境にして、もうひとつの理由を謎めかすという新たなテーマに移っています。
そしてhの文では、男の快活な様子の描写が、【】文を隔てて、買い物に行くエピソードの叙述に変わってしまってるんです。
つまり、これらの例文においては、【】文が談話を締めくくり、それ以降の談話と区切りをつける「談話の結び」の役目を果たしているわけです。
【】文内の―線を引いた焦点位置に、「そのせいなのです」「そんなとこだったのかもしれない」という抽象的であまり重要でない情報が示されているのは見た通りで、本来なら情報価値の高い内容が期待される位置に、あえて価値の低い内容を示すことによって読み手の意識は足踏み状態になるのです。
順調に流れていた情報が一時停止し、流れによどみが発生して、それまで続けられてきた話がここでひとまず終結し、新たな話に移るということを暗に示す働きが生じることになるんですね。
反対に、「昼寝をするのに最適なのがお寺や古民家だ」「男のそんなところに惹かれたのが静江だった」というように、後方焦点に具体的な指示対象が表現されるなら、後続文はそこで話題を切りかえるなんてことは出来るはずもなく、「お寺や古民家」「静江」について引き続き述べられるのが、やはり文脈形成として自然な流れになるのでしょう。