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京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

首尾一貫しない文 ねじれた文を書かないようにするためのライティングイメージ

長いセンテンスは読みにくいか

世に市販されている文章表現の入門書、そのほとんどに、「文は短く、とにかく短く」と書いてあります。

わかりやすい文章を書くためにはとにかく短い文を並べろという「短文信仰」です。

短い文で纏めあげれば明晰な文章が必ず書ける、と説かれているのですが、ただ、どうしても短い文だけで繋げてしまうと、ブツブツと切られるような印象が出てしまうのは否めないんですね。

何度も文が切られるということは、そこで文章の流れが何度も小さな切れ目を迎えるということなので、一連の出来事の連続性を遮ることなく書き綴るということが難しくなってくるのです。

だから、長い一文になったとしても、読み手に違和感なくスラスラと読ませることが出来るのなら、その全体の流れをひとつの文にまとめてしまう、という手法のほうが表現としてはかなり有力となるはずなんです。

複数の述語が一つの文に収められた複文を書くとするなら、接続助詞を使うなどした前後の関係が明示されていなければなりません。

そのなかでも、まず思いだされるのが、強力な限定性を持って結びつけようとする働きを持つ、「ので」「から」「ば」「たら」「のに」「ても」といった因果関係で結びつけられる接続助詞の類です。

これらは、

【徹夜で仕事をこなした(ので/から)、体がキツイ】という原因・理由節や、

【薬を飲ん(でも/だのに)、熱が下がりません】といった逆接条件節の例文に見られるように、

前と後ろの論理的関係を明示して強力に結びつける、という最も実用的で意味が取りやすい接続形式として使用されます。

そして、これほどまでに関係性を強く出すこともなく、比較的広い関係で結びつけてしまうやり方が、「が」や「けれども」といった接続助詞によるもの、さらに連用中止法を使ってひとつの文にまとめるという方法です。

たとえば「が」や「けれども」を使う場合、

鮮度のいいヒラメを食べてもらおうと思っていた、あいにく今日は手に入らなかった。

そんなつもりで言ったんじゃ、なかったんだけれども、彼女を怒らせてしまった。

そう、どちらの文にも共通しているのが、「思っていた が」「なかったんだ けれども」というように、「が」と「けれども」を取ってしまうと、独立性の高い終止形で終わるひとつの文になっているのがわかります。

鮮度のいいヒラメを食べてもらおうと思っていた。でも、あいにく今日は手に入らなかった。

広い関係で結びつけるというのはこういった意味で、もはや、こうなると二つの文に分けてしまったとしても、特に文意が変わるようには思えないんですね。

だから、条件節や原因節とは違って、関係を明示したとしても、ひとつの文にするメリットが希薄になるような感じがするのです。

そして、その、さらに上をいく広い関係を表すのが、連用中止法という動詞の連用形で表現する接続形式になります。

わかりやすく短文で例示しますと、

横殴りの雨が降り、猛烈な風が吹く。

というように、この文は、「風が吹き、雨が降る」と言い変えても意味合いは同じなので、「吹く」と「降る」は二つの出来事として対等な「動き」を表しているのだと言えます。

つまり、二つの文節に因果関係があって結ばれているわけではなく、並列展開しているということなんですね。

並列の関係とは、本来は別個で平等なもの同士を、たまたま一括りにまとめることです。

並列表現されている先行文節と後行文節が自由に入れ替えできるということが、それを証明しているということに他なりません。

ですので極論を言うと、連用中止法で文をつないでいけば、どこまでも永遠に文章を複文展開させていくことが出来るということなんです。

力学的イメージ

ここで一度、整理したいと思います。たとえば、ひとつの家屋の建築を例にすると、まず土台に使うセメントがあって、柱や敷居に使う木材、屋根に使う瓦などが素材として必要になります。

それと同時に、セメントを土台として固め、その上に木材を柱として立て、さらにその上に瓦を屋根として葺きあげなければなりません。

当たり前のことですが、素材がしかるべく作業によって関係づけられなければ家屋は完成しないのです。

そして、この家屋のように、素材と関係構成といった両要素に支えられているという構造は、ひとつの文の完結性についても同じことが言えます。

名詞や動詞といったその素材たちが、「が」「を」「に」といった格助詞や、「から」「ので」という接続助詞という関係構成によって結合されて、ひとつのセンテンスが作られていきます。

素材がなければ関係構成はあり得ないし、関係構成がなければ素材は素材として生かされません。互いに相手を抜きにしては、存在し得ない間柄にあるのです。

 

桜の花が、咲いている。

という、この非常にシンプルな一つの文を例に見ると、「桜」という素材は連体助詞「の」を伴って、「花」という名詞に係っていくことで「桜の花」という名詞句になります。

そして、その「桜の花」という名詞句は、今度は「が」という主格の格助詞を伴い、連用修飾という名のもとに、述語「咲いている」にかかっていきます。

「桜」や「の」の意義は、ただ文中に静的に置かれているわけではありません。それらはむしろ動的に、言わば力学的な関係を持って次の素材へとかかっていこうとしているのです。

屋根がただ単に屋根として置かれているのではなくて、重みとなって柱という素材にかかっていき、屋根の重みを受けとめた柱は、さらに自身の重みを加えて土台へかかっていこうとします。

それと同じように、文中に置かれた言葉の個々の意義は、かかっては受け止められ、受けとめられてはさらにかかっていくという力学的なかかわりを持っているのです。

そして最後に、そうした意義の「総重量」を全て一身に受けとめるのが、土台的存在である「述語」なんです。

日本語のセンテンスの中心が「述語」なのだと、繰り返し、繰り返し言われる理由は、まさにここにあるんですね。

私たちが文章を書くときにこの力学的イメージを意識下に持つことが出来るのなら、きっと、首尾一貫していない破文や、主部と述部が呼応していないねじれた文を書いてしまうリスクは大幅に減らせるに違いありません。

少し複雑になるかもしれないのですが、今、どこに向かって言葉をつないでいるのか、そして、最後にどう締めくくろうかと想定しながら、文末の「。」に向かって、ただ書くことが必要なのではないでしょうか。

ところがです。たったひとつだけ、この力学的イメージにあてはまらない文法表現が存在します。

そう、それこそが連用中止法に見られる動詞の連用形なんですね。

先に紹介した、

「横殴りの雨が降り、猛烈な風が吹く」という文を例にしますと、

「✖ 横殴りの雨が降り、吹く」という文は日本語としては受け入れられません。

あくまでも「横殴りの雨が降り」という節は、「吹く」という述語にかかるのではなく、「猛烈な風が吹く」という後方の文節全体に並列的意義を持ってかかっていくことになるのです。

もし、この例文のような短い文ではなくて、もっと各々の文節が長くなったとしたら、読み手はどこまでその文構成を理解することができるでしょうか。

さらに、

「目を開けられていられないほどの横殴りの雨が降り、暗闇に覆われた空がひび割れてしまうのかと思うほどの雷鳴が響きわたり、ここ数年で経験したことのないような尋常ではない猛烈な・・・」

というように連用中止法の繰り返し頻度が増え続けたとしても、同じように文意をすぐに読み取ることが出来るのでしょうか。

最初の「雨が降り、」まで読んだあと、文の締めくくりとなるピリオドにいつまでたってもたどりつけないので、なんだか不安でイライラしてしまいます。

なぜなら、「目を開けられていられないほどの横殴りの雨が降り、」という最初の連用中止法は、文末の「。」にたどり着くまで、その後に続く全ての文章にかかっていかなければならないことになるからなんです。

さらに、「雨が降り、」が最後までたどり着いていない状態で、今度は「響きわたり、」が後を追ってセンテンスのなかをさまよい続けることになってしまってるんです。

では最後に、まさにその連用中止法が導く混沌を実例として見せしめる、あの有名な「日米安全保障条約」の序文を見てみましょう。


日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、両国が国際連合憲章に定める・・・・・