いつ改行すればいいのか
文章表現の入門書として空前の大ヒットとなった本多勝一(著)「日本語の作文技術」。
その第7章では、文章のなかにおける「段落」の本質とは一体何なのかということが、本田さん独自の視点で解き明かされています。
「段落」とは、つまり、改行+1字下げ、という区切り符号で認識することのできる、文のまとまりですね。
長い文章の場合、それこそ、どこかに区切りが示されていないと、読み手としては文字を追いかけるのが大変なので、どこかの区切りで短い単位として分断することにより、文内部の構造を視覚的にわかりやすく示すということが行われるわけです。
ただ、「ずいぶん文が長くなってしまったので、そろそろ改行しようか」などという改行は、決して、してはいけないのでしょう。
そう、あくまでも段落というのはひとつのまとまった思想表現の単位でなければならないのです。
本多さんによると、ひとつの長い文章論文や単行本を人の体に置き換えるとするならば、「章」という単位は足、腹、頭といった大きな部分に値するのだと説かれています。
さらに、足という「章」は、小指・親指・すね・もも・ひざ・・・・という小部分の「段落」からできていて、関節の機能を担っているのが「改行」だと例えられているんです。
ただ、それは決して「すね・もも・(血液)」という構成ではありません。血液はそれ以前の構成組織としての「文」(センテンス)だといえるのですから。
各思想のまとまりである(すね・もも)は、きちんと改行された関節の部分で曲げられなければなりません。
関節ではない部分を強引に曲げてしまったらとんでもないことになります。
とは言っても、ある程度バランスよく作り上げられた人体とは違って、「章」や「段落」というのはその思想部分によって様々な長さを持ちあわせることがわかります。
一行だけの短い段落というものも存在すれば、延々と何ページにも渡って行を変えない書き手がいるのもまた事実なんです。
そのため、段落の観念をハッキリもっている作家たちと、読者の読みやすさを大切にする出版社の編集者たちがよく揉めはじめるのだといいます。
ベテラン編集者たちは、「そろそろ改行しようかな」と、相談もなくレイアウトのために原作の改行をいとも簡単に変えてしまうために、筆者たちは烈火のごとく怒りをあらわにするらしいんですね。ワシの思想を、なにブチ壊してくれてんねんと。
枝に葉を茂らせるように
ひとつの文のなかに、「は」で主張される「主題」があるように、段落のなかにもそのリード文となる「主題文」が存在します。
その主題文を(トピックセンテンス)と呼び、段落を(パラグラフ)とするなら、パラグラフの構成とは一体どうなっているといえるのでしょう。
ひとつのパラグラフが何について記述しているのか、何について話題にしているのかという、その主要な内容を取りまとめた一文がトピックセンテンスです。
総論ともいえる、パラグラフ内の中心思想をまとめた一文であり、書き手の主張がそこに凝縮されています。
その総論文、つまり、リード文に呼応するように、そう、枝に葉を茂らすようにいくつかのセンテンスが覆いかぶさり補足することによってひとつのパラグラフは完成するんですね。
トピックセンテンスという枝に葉を茂らせる方法は、「定義づける」「例示する」「比較・対象」「原因・結果」などさまざまで、それこそ書き手のその時の思いによって自由に書き足されていくのです。
また、トピックセンテンスはその役割から、パラグラフの頭書に置かれることが多いようですね。
では実際に、パラグラフの構成を例文で分析してみましょう。
①趣味がないという人は意外と多く、なにか探さなければと不安になり、悩んですらいる。②でも、たぶんこれから先も見つからないだろう。
③なぜなら考え方のベクトルが間違っているので、答えにたどりつけないからだ。
④具体的な趣味をやみくもに探しだそうとするのではなく、まず、自分が好きなことを思い浮かべてみる。
⑤たとえば、不動産のチラシ広告に載っている部屋の間取図を見ているのが何故か好き、とか、魚の図鑑を眺めていると時の経つのを忘れてしまう、とか。
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⑥具体的な「趣味」なんてないけれど、なぜかそれが好きという「こと」は、人ならば必ず持っているはずだ。
⑦もし、それを自覚することが出来たのなら、次はきっと、導かれるように探していた趣味の世界へと、人はたどり着けるに違いないのだ。
この、①の「趣味がないという人は意外と多く・・・・」という文と、⑥「具体的な「趣味」なんてないけど・・・」という文が各トピックセンテンスとなっていて、②から⑤までの連文が①の文を、⑦の文が⑥の文を補足する形で、このふたつのパラグラフは形成されています。
そして①の文から⑥の文へとダイレクトに繋げても特に違和感を感じることがないのがわかりますが、これは段落の主要文だけをつないでいくと、もっと大きい「章」という単位の大黒柱もしくは焦点となって全体を貫いていくことが出来るからです。
このようにトッピクセンテンスたちは各段落のそれぞれをも、文脈に沿って、相互にスムースにつなげていくという連関的な役目までも背負っています。
ただ、ひとつのパラグラフ内のなかでは、あくまでも余計な脂や贅肉を持たない書き手の核心を表現する主役の一文であるわけなんです。
首尾一貫したひとつの統一体であるパラグラフ。ひとつのパラグラフを書き上げるということは、もうそれだけでひとつの作文の完成に値するんですね。
言い方を変えると、トピックセンテンスと補足文の関係性は、まさに、「問い」と「答え」という問答表現なのだとも言えるのではないでしょうか。
明確な疑問形で表現されていなくても、それは、トピックセンテンスの「問い」に各補足文たちが「答え」を出していくという、書き手の「自問自答」がそこには提示されているのです。
書き手は読み手にその「自問自答」を読ませることによって、すっきりと論旨を明確にわかりやすく伝えることができる。問と答、まさに文章表現の二層構造を、ここでも垣間見ることが出来ます。