鴨川   歌舞伎発祥の地  たったひとつの勲章

天下三不如意

平家物語の巻一に天下三不如意という逸話があります。

絶大な権力を持った白河法皇が、「かも川の水 双六の賽(サイコロの目) 山法師(延暦寺の僧)是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたというのです。

それくらい鴨川の水は何度も氾濫し、大雨が降るたびに京都の人々を不安に陥れました。

江戸時代初期に護岸の石垣工事が施工されたときに、やっと河川として管理されるようになります。

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鴨川は賀茂川とは区別され、大原方面から南流する高野川と、雲ケ畑から南下する賀茂川が下鴨神社のところで合流した地点から、南の下流で桂川にそそぐ地点までのあいだのことを鴨川といいます。

大衆芸能が広がる桃山文化

江戸初期になると川幅もかなり広くなり、四条・五条付近でいうと、いまの河原町通りが西岸の位置で、大和大路が東岸の位置だったのです。

なので、鴨川の河原の幅も現在のそれよりもかなり広くて、芝居・能楽・舞踊などの見物小屋がひしめき合うように並んでいました。

1603年、鴨川の四条河原で、出雲大社の巫女(みこ)といわれる阿国(おくに)が、若い女子のグループにそろいの小袖を着せて念仏踊りを興行を始めました。

これが大成功をもたらし、八坂神社・北野天満宮・五条河原などでも公演され、京都の交通のさまたげになったことで、幕府から問題視されるようになります。

桃山時代から江戸初期にかけての、民衆の解放と平和への歓喜が押し寄せるはじまりが、ちょうどこの頃だったのでしょう。

歌舞伎のはじまり たったひとつの勲章

やがて女たちは男装して出演するようになり、ストーリー仕立ての物まね狂言とよばれる劇を演じます。

それが、遊女歌舞伎(女)から若衆歌舞伎となり、風紀上の規制から野郎歌舞伎(男)に変わっていくのです。

しばらくすると、女形(おやま){女装の男優}がでてきて、現在の歌舞伎の形が完成しはじめたんですね。

鴨川の四条河原は歌舞伎劇発祥の場所なので、四条大橋の東詰めには阿国の記念碑が建てられることになります。

能狂言を正統な劇と考える立場から、それに対する変則的なものという意味で歌舞伎と呼ばれるのですが、歌舞伎とは宛字であり、もともとは傾く(かぶく)の意味になり、尋常ではないもの、ストレートではないものという意味を持ちます。

この頃、京都にかぶき者といわれた男伊達の野郎たちがいました。

派手な着物を身にまとい、長い刀、長いキセルを持って町を闊歩していたといいます。

世に媚びず、かたくなな自分だけを信じて生きる。

彼らにとって、突っ張ることが、たったひとつの勲章だったのです。