芭蕉が記録した嵯峨野
嵯峨野の里にある茅葺の小さな庵、落柿舎。それは、松尾芭蕉の古くからの高弟である向井去来(きょらい)の別荘でした。
紀行文『奥のほそ道』で有名な江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉は、1689年にはじめて落柿舎を訪れ、その2年後、再び訪れたときに『嵯峨日記』を完成させています。
ちょうど初夏のころで、17日間滞在して、緑の嵯峨野や嵐山を巡り記録したといいます。
その縁から落柿舎は俳諧の名所となり、芭蕉や去来をしのんで多くの人々が集まり賑わったのです。
大切に受け継がれた庵
去来が結んだ庵はどこにあったのかというと、この付近であることは間違いないのですが、その正確な場所はピンポイントでは特定されていません。
去来の「柿主や梢はちかきあらしやま」の句の趣にもっともふさわしい場所として選ばれ明治期に復元されたものが、現在の姿の落柿舎になります。
去来から数えて落柿舎八代目の柏年(はくねん)がここに住みはじめましたが、去来の俳諧の精神は、場所が変わっても脈々と受け継がれてきました。
この嵯峨野の里は、芭蕉が多くの俳人と交わった場所であり、それによって制作された『嵯峨日記』という記念すべき作品を生み出した遺跡の地でもあるのです。
なぜ落柿舎と名付けられたのか
去来の『落柿舎の記』には、自身の別荘を落柿舎と名付けた理由が記されています。
その古い家のまわりには40本の柿の木がありました。
その木がたわわに実をつけているのを見て、ある商人が柿の実を譲ってほしいとお金を置いて帰ります。ところが、その夜のうちに柿の実はほとんど落ちてしまったのです。
翌朝、商人が来て「なんやこれは、ぜんぶ落ちてるやないか」とクレームになり、去来は丁寧に詫びたそうです。
普通の人間ならば、そんな災いの柿の木は処分するのですが、去来は面白がって落柿舎と自分の庵号に名付けました。
まさに、ここに去来の俳諧の精神が表現されていたといえるのです。
これは松尾芭蕉も同じでした。植物の芭蕉というのは、木の材質は全く役立たずの上に、葉は雨風にすぐ破れます。
つまり、無用の植物である芭蕉という名を彼は気に入り、自らの名前にあてたわけです。
人が無視したり無用とみなすものを、逆に面白がってむしろ大切にする。師弟の共通した譲れないこだわりだったのでしょう。
「我家の俳諧にあそぶ」
芭蕉は晩年、つまり『奥のほそ道』の旅以降は、故郷の伊賀や京都・大津で過ごすことが多かったようです。
点取り俳諧ばかり流行っている江戸に嫌気がさしていた芭蕉は「とくに新しいこともなく、友なきを友とし、ぜんぜん面白くない」と、いらだちと孤独の日々を過ごしていました。
そんな芭蕉にとって、心のままにのびやかな気持ちにさせてくれる場所が、去来の住む落柿舎でした。
京都を訪れるとそこに待っているのは、世間を超越した俳諧サロン、そんな「我家の俳諧にあそぶ」楽園だったのです。