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法勝寺  巨大で奇抜 八角九重塔はなぜ建てられたのか ①

院政

平安時代、白河上皇に「天下の三不如意(ふによい)」という有名なエピソードがあります。

賀茂川の氾濫、双六の目、延暦寺の僧兵、この三つだけは自分の意のままに、思い通りには、どうしてもすることが出来ないと上皇が嘆いたという話です。

ですがこれは、逆に、その他のことは全て思い通りに、意のままに動かしていたという裏返しでもあります。

つまり、この時代の上皇という絶対的権力、「規制」がまったくない「院政」という執行権を白河上皇は手にしていたということです。

これが天皇という立場だと律令の下に、摂政、関白、左大臣、右大臣が補佐しているので、そうそう勝手な振る舞いは許されません。

でも、上皇というのは、血縁に由来する権力機構です。皇子に天皇の位を継承して、上皇自身は相談役となるのですが「権威」だけは残ります。

その「権威」を持って、国政の最高権力を握り、この国を統治するシステムこそが、当時の「院政」なのです。

大事な儀式を大雨によって三度も延期させられた白河上皇は、怒り狂ってその雨を器に入れて投獄したという話が今も伝わります。

歴史的に見ても前例がないほどのカリスマ的存在であった白河上皇ですが、それゆえに、慣例にとらわれない新しい政策も次々と打ち出していたのです。

幻の塔

その白河上皇が承暦元(1077)年に建立したのが、現在は地名だけが残る、あの法勝寺(ほつしょうじ)です。

建てられた場所は平安京の東、鴨川を越えたその白河の地は、当時、天狗の住む場所と言われるほど巨木に囲まれた鬱蒼とした静かな所でした。

ちょうど現在の京都市動物園のあたりに位置し、東西がニ町、南北は三町に及ぶ広大な敷地に建てられたその伽藍群は、東大寺に匹敵する規模を持つ金堂をはじめ、講堂、阿弥陀堂、法華堂が立ち並び、その南には広大な池と中島で構成されていたのです。

 

そして、開基から4年後に、この中島に突如出現したのが、幻の塔と呼ばれた八角九重塔です。

それは、高さ二七丈(81メートル)におよぶという、金の装飾が施され、露盤が光輝く他に類のない美しい塔であり、塔としては珍しく最上階まで登れる構造になっていました。

それは「登れば鷲や鷹の飛翔と同じく仰ぎ、見下ろせば飛ぶ鳥が見える」と記録されています。

塔として珍しいとはどういうことかと言いますと、日本のほとんどの三重塔や五重塔というのは、各階層は内部で繋がっていなくて、一階一階が独立した造りになっているんです。

ちょうど、キャップを上から被せるように一つずつ積み上げるように造られていて、真ん中に立つ心柱も建物とは繋がってはいないのです。

塔の心柱の存在理由というのは、各壁面との距離を測ったり調整することによって塔に傾きがないかチェックすることであり、決して真ん中で塔自体を支えるためにあるのではないのです。

もし心柱にそんな役目を与えてしまうと、震度の強い地震が襲ってきたら塔全体がポキッと折れてしまって、あっという間に倒壊してしまうことでしょう。

だから内部で回廊になった階段で上に登れるというこの塔は、各階層が密接に繋がっているという他に例のあまりない珍しい部類であって、逆に、非常に脆く危険な塔だったであろうと言えるのです。

実際に、およそ100年経った元暦2(1185)年、京都に大地震が起こったときに法勝寺はかなり大きな被害を受けています。

九重塔は、ほとんど倒壊状態にあったのですが、この時、東大寺を再建させた奈良のプロフェッショナルチームを引き連れて修理再建の援助をしたのが、あの源頼朝だったんですね。

この国を支配していたもの

法勝寺が建てられる少し前の頃まででしょうか、つまり、院政が始まるまで、実質的にこの日本という国の支配権を握っていたのが平安貴族・藤原一族です。

代々、その娘たちを皇后として、その生まれた子が天皇になることによって外祖父となり、皇族と血縁関係を築いてきました。

その外祖父は、天皇から摂政および関白という形で政治の全権委任を丸ごと与えられていたのです。

そして彼らがその権力、その財力を持続させるために積極的に最も力を注いだのが、「荘園」の開発でした。

「荘園」というのは有力貴族や大寺院などの特権階級の私有地(私領)のことですが、不輸(ふゆ)の権といって、彼らは一切、その私有地からの税を取られなかったのです。

もともとは日本の国土というのは公領であり、天皇家領なのです。

でも、長い歴史の中で徐々に一部の私領が認められはじめ、もうこの頃には、新たに開発した農地は全部開拓者のものになるという墾田永年私財法が、一度は実質的に中断されていたにも拘らず、すでに声高々に復活していました。

そして、開拓した土地を持つ地方の地主たちは恐ろしいほどの税を国に取られるために、そうしなくて済むよう、ある抜け道を考え出すんですね。

それは開拓した土地を藤原氏に寄進してしまうというやり方です。

土地を形式的に藤原氏の名義にしてもらい、バカ高い税金を国に払わずに済むようにしたのです。

もちろん名義料は藤原氏に支払わなけれればなりませんが、国に税を取られることを考えれば、格安の支払いで済ませることが出来たのです。

天皇家にとって、これはとても黙認出来ない状態でした。藤原氏名義の私領が増え続けるということは国領がそれだけ減っていくということであり、一定の税収が得られなくなるからです。

国の財政が苦しくなると、結局、そのしわ寄せは平民たちにいくのであって、とても健全な社会状況とは言えなくなるんですね。

一方で、藤原氏たちだけは、自己所有の荘園と地主からの「名義料」という二つの湧泉からの収入により笑いが止まらないわけです。

しかも、税率を決定する権限を持つ政府高官というのは、ほとんどが藤原氏の官人で占められていたのです。

藤原氏をはじめ、一部の特権階級だけが利権を貪り続けるという理不尽な状態が、結局、改革されることなく何世紀も続いていたわけなんですね。

ですが、この世は無常です。常がいつまでも続くことはなく、終わらない世界というのはありえません。

ついに、藤原家の栄華が陰りを見せ始めるときがやってくるのです。

天皇家に娘を嫁にやることで娘が皇子を産む。それによって藤原氏は権力を手に入れてたのですから、もしそれが途絶えたらどうなるか。

そう、ついに天皇家と藤原氏の血縁関係が途切れるときがやってきたんです。

永承7(1052)年に、あの平等院鳳凰堂を完成させたのが、関白・藤原頼道です。頼道は、嫁がせた娘に皇子を産ませることがついに出来ませんでした。

頼道の弟である教通(のりみち)も娘を天皇家に嫁がせていましたが、こちらも子を授かることはなかったのです。

時がくれば、そんなもんです。なんともあっけなく、藤原氏は天皇家の外祖父という立場をこの世代で失うことになります。

そして、ついにここに藤原氏の娘からの出生ではない、藤原家の血を引き継がない天皇が誕生しました。

それは、三条天皇の娘である禎子(さだこ)内親王を母に持つ「後三条天皇」です。この後三条天皇こそが、前述した白河上皇の父にあたるんですね。

後三条天皇は国家の財政を破綻させないために、徹底的に藤原一族に闘いを挑みます。そうまるで、その使命のために、この世に生まれて来たかのように。