歓喜に沸く豊国大明神臨時祭
慶長3(1598)年、豊臣秀吉は伏見城で他界し、方広寺大仏殿の背後にそびえる阿弥陀ヶ峰に理葬されています。
翌慶長4年には、「豊国大明神」という神号を朝廷から与えられ、正式に神格として祀られました。
これが「豊国神社」の創建であり、生前の秀吉の「自ら神になりたい」という神格化の願いは、東山・阿弥陀ヶ峰の地で叶えられたのです。
その後、慶長9年8月の秀吉の七回忌にあたって、豊国神社を中心にして豊国大明神臨時祭が盛大に行われました。
溢れるほど人々がくり出している風流踊りの様子が、岩佐又兵衛の豊国祭図屏風に描かれ遺されています。
まさに、関ケ原の戦後の解放感からみちびかれた平和への歓喜が、京中に沸きかえるありさまなのです。
ただ、このとき民衆たちは大いに盛り上がっていたのですが、豊臣家の人々は、徳川から執拗に嫌がらせを受ける辛い日々をおくっていたのでした。
徳川からの報復
1615年に大坂城が落城し豊臣家が滅びると、すぐに、家康は豊国神社を徹底的に破壊します。
そう、自分自身もそんなに長くは生きられないことを悟り、その不安を振り払うように破壊したのです。
それくらい、家康の秀吉に対する恨みつらみは根深かったのでしょう。
荒々しく掘り起こされた秀吉の墓は、阿弥陀ヶ峰から方広寺大仏殿の裏に、投げ捨てるように移されました。
また、秀吉の神号は剥奪されて、以降、神ではなくただの人として供養されるように手配され、方広寺大仏殿は、天台宗・妙法院が利権をもって納める土地に変えられたのです。
歴史遺構の宝庫 東山七条
それから、250年の月日が流れ、慶応4(1868)年に明治政府は、徳川が徹底的につぶしにかかった豊臣家の神社再建を決定します。
そして、明治13(1880)年、方広寺大仏殿跡に豊国神社は復興しました。
拝殿前の豪壮な唐門は伏見城の遺構なのですが、二条城から南禅寺の金地院に移され、さらにここに移築されました。
鍍金の飾り付け金具が日に照らされきらめく様子は、訪れる人々を魅了しています。
また、明治23年には、その南側に帝国京都博物館(現在の京都国立博物館)が発足し、この東山七条辺りの人出は観光客によって大幅に増えることになります。
この界隈には、ほかにも三十三間堂・養源院・妙法院・智積院が立ち並んでいて、まさに、貴重な遺構の宝庫ともいえる場所なんですね。
方広寺大仏殿跡に建つ豊国神社の前の通りは大和大路通りというのですが、幹線道路でもないのに、洛中の路地の7倍くらいの道幅が広がっています。
これは、方広寺の社域がかなり広大であったことを示していて、今も残る巨大な石垣とともに、このあたりの最も重要な聖域であったことがわかります。
近江から運ばれた巨大な石
石垣に使われているこの巨大な石は、近江から運ばれ、日吉大社の石垣修理役である穴太(あのう)の石工によって造られたものだといまに伝わります。
秀吉は尾張中村の出身なのですが、幼少名の日吉丸から日吉神社、つまり近江に深く関わっている人物なのではないかと、いわれているんですね。
秀吉のニックネームも日吉の神使が(猿)なので、そう呼ばれていました。
そして、秀吉は1593年に落慶法要として、父母の供養をこの方広寺大仏殿で行っています。
これは、方広寺を豊臣氏の氏寺とし、ここで国家鎮護を祈願することで、豊臣一族の繁栄は国家の繁栄でもあることをアピールするためだったのです。