こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

伏見  旅籠・寺田屋事件 幕末最大の惨劇

なぜ薩摩と長州だったのか

関ケ原の戦い以来、260年も続いた徳川幕府が倒されてしまった最大の理由とはいったい何だったのでしょうか。

それは、もともと仮想敵国である薩摩や長州の「自由に京に入り」「自由に公家と交際する」という権利を幕府が黙認していたからだと言われています。

長州の藩主である毛利家は、徳川将軍成立以前からの「毛利朝臣」という朝廷の臣であり、薩摩の島津家はそもそも関白・九条家の荘官でした。

そういった京都における公家社会とのこれまでのつながりというのが、いわば両藩の「伝統」です。

だから、都に藩邸を築くことをお許し願えますでしょうかと言われれば幕府は却下出来なかったんですね。

なぜなら江戸幕府というのは「信長・秀吉の新しさを徹底的に求める政治」というものを徹底的に嫌い、「伝統」というものを最も重視していました。

まあ、結局その理念は核心をついていたのでしょう。2世紀半に及ぶ政治権力を保ち続けることを徳川家は出来たわけです。

ですが、そのために、一方では伝統重視といいながら、薩摩や長州に京都市中に藩邸を建てることを「許さぬ」とは言えなかったんですね。

つまり矛盾しないように、「これが我が藩の伝統なのです」と主張されれば、「伝統ならば仕方ない」と認めざるをえなかったということです。

結果、薩摩や長州は御所を抱く洛中に「伝統」的に活動拠点を置くことが出来ました。

やがてそれが、幕府に虐げられ不満を抱いていた公卿や公家たちと薩長雄藩を固く結びつけることとなり、時代は動いていくのです。

そう、まさに繰り返しの歴史です。

鎌倉時代以降、朝廷VS幕府という対立構造を核として引き起こされる戦争によって幕府(武家)側に新たな支配者が生まれるということの繰り返し。

それが、明治維新が成されるまでこの国では続いたのです。

薩摩藩御用達

古くからの水運の港であった京都・伏見。その名所として知られるのが旅籠・寺田屋です。

大坂と水路で繋がっていた伏見という場所は、二十石船がいくつも行き交う多くの人々で賑わう港町でした。

当時40軒ほどあった舟宿のうちのひとつで、唯一現存している寺田屋には、今も全国から観光客が訪れています。

薩摩藩の御用達の宿だったこの舟宿は、あの坂本龍馬も京都滞在時の常宿としていて、じつは歴史に残るような大事件がふたつ起こっているんですね。

最初の事件は薩摩藩士同士が斬り合うことになってしまうという凄惨極まりない事件で、その4年後に起こったのが、あの坂本龍馬が幕府の刺客に襲われ、負傷をしながらも命からがら逃げ延びたという襲撃事件です。

 

最初の寺田屋事件が起こったのは、文久2(1862)年4月23日の夕刻のことでした。

薩摩藩士たちのなかでも最も過激な人々で形成された誠忠組。有馬新七ら二十数名がそこに集結していました。

彼らはいわゆる尊王攘夷を主張とする「倒幕派」であり、幕政改革で幕府を存続させたい「公武合体派」を最も敵対視しています。

「安政の大獄によって、正しい意見(攘夷・倒幕)を持つ天皇の側近たちは全て遠ざけられてしまい、幕府とべったりの関白を中心とする腰抜けの公家たちが大きな顔をしている。」

「そして奴らは、誤った判断ばかりを天皇に意見してこの国を滅亡させようとしている」

こういった批判をかかげ、自分たちが絶対正義だと思い込んでいた有馬たち誠忠組は、公武合体派の中心人物である関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を亡き者にしようと企んでいたんですね。

久光の思惑

ところがこの時の薩摩藩の「国父」である島津久光は、倒幕ではなく、朝廷の後ろ盾を得た幕政改革でこの時の国難を乗り切ろうと考えていたのです。

そして久光はその自身の改革案を孝明天皇に伝えてもらったところ、天皇はその忠義を大いに喜ばれていたという情報を得ていました。

仲介に入ったのは、島津家の主人筋である近衛家(旧 九条家)であり、天皇に心酔する久光の公武合体実現の決意は揺るぎないものとなっていたのです。

だから、有馬たちのクーデター計画を耳に入れた久光は、怒りで体の震えを止めることができないぐらいだったといいます。

家臣の分際で跳ね返るとはなにごとかと、ましてや島津家の古くからの主筋である九条家を殺めようとするなんて、もはや許すことはできんと、烈火のごとく激怒したんですね。

また、有馬たちの計画を事前に察していた薩摩藩の若頭的存在だった西郷隆盛は、まだ時期尚早で失敗の可能性が高いと考え、村田新八とともに誠忠組を説得するため伏見に向かいました。

ただこれは久光の許可を得ないで勝手に動いたことだったので、久光の怒りの火に油を注ぐことになり、結局、西郷は強制的に薩摩に戻され、厳罰な処分を受けることになります。

本来ならば、久光の意にそって過激派たちを鎮めにいった西郷の行動はなんの問題もなく、まして緊急事態というなかでの移動だったのです。

薩摩藩のなかにいた西郷に悪意を持つ他の家臣が言った「西郷たちは有馬たちをそそのかしに行ったのです」という根拠のない讒言を久光が信じたことと、もともと久光というのは西郷の存在を苦々しく思っていので、おそらくこういう事態をまねいてしまったのでしょう。

有馬たちに計画をやめるように説得させるために、久光は同じ誠忠組から大山綱良を筆頭とする9人を選び派遣しています。

この9人というのは全員が剣術の達人であり、一人で何人もの敵を倒せるようなレベルのものたちが揃えられていました。

つまり、有馬たちが説得に応じなければかまわないから斬り捨ててしまえという暗黙の指示がそこに含まれていたんですね。

大山たちは寺田屋へと向かい、幕末最大の惨劇と言われる寺田屋事件はこうして起こったのです。

血の涙を泣きながら

有馬たち一同が二手に分かれて、関白亭と京都所司代へ向かおうとしていたまさにその時、奈良原繁を先頭に説得側の藩士らが訪れ、彼らを座敷に引き留めました。

奈良原はこれは主君の絶対命令だと説得にあたります。主君の命令とは絶対であり、薩摩藩においても背くことなどは許されないことなのだと。

しかし有馬たちは、安政の大獄で幽閉されている青蓮院宮から「われを助けよ」という命を受けており、それは主君の言葉より大事なものなのだと一歩も引きません。

ついに斬り合いが始まりましたが、なにしろ討手たちは剣術の達人たちです。返り討ちにあったのは一人だけで、謀反組は有馬を含め6人がその場で漸死させられたのです。

これは討つ方も薩摩藩士、討たれる方も薩摩藩士という同士によるやりきれない殺し合いです。あまりにも凄惨であり残酷なのです。

奈良原はこれ以上同志たちの犠牲者を出してはならないと、残りの誠忠組たちに対して血の涙を泣きながら必死の説得を試みました。

目の前の惨劇に言葉を無くした残りのメンバーたちはこれに応じ投降したのですが、そのなかには、後に海軍大将となる西郷隆盛の弟、西郷従道もいたんですね。

こうして寺田屋事件は幕を閉じるのですが、その後、謀反を起こした志士の中から、戒めとして数名の者たちが切腹の命を受けることになります。

この事件は伏見の町の人々にとっても大変ショックな出来事であり、事件後の現場には多くの見物人が詰めかけていました。

そして、その中にいた呉服商の井筒屋伊兵衛は、従業員たちと共に白木綿で志士たちを包み、近くにある薩摩藩の祈願所・大黒寺に手厚く葬りました。

現在、この大黒寺の墓地には西郷隆盛による直筆の墓碑銘をもつ九烈士の墓が並んでいます。