時の流れ
治暦4(1068)年、藤原摂関家と外戚関係を持たない後三条天皇が帝位についたのは35歳のときでした。
「えも知れぬ重圧を感じるのは、関白摂政が天皇の外祖父であるからのことで、私とは全く無縁のことだ」と、この時、後三条帝は周りに豪語しています。
長期にわたって政治の支配権を握っていた藤原一族から、ついに、王党がこれを取り返すことになるのです。
旧勢力への対抗手段として、後三条天皇がまず手をつけたのが荘園の整理でした。
荘園という藤原家の膨大な私有地、その全てが免税にされている特権区から、まず改革を進めようとしたのです。
延久元(1069)年、天皇は荘園の整理令を発し、記録荘園券契所を設立します。
この整理券発令の目的は、不正な手続きによって作られた、本来は認められない荘園を没収するためにありました。
すべての荘園から権利書を提出させて、それらを細部にわたって検証していく。
そう、そこから不正をあぶり出して厳しく取り締まっていくことで、藤原家を追い詰めていこうとしていたのです。
じつはこれらの整理令は160年前から行われていたのですが、その度に、絶大な権力を持っていた藤原摂関家にことごとく跳ね返されていたのです。
でも、今回は今までとは違いました。もはや、時代の流れと言いましょうか、国を取り巻く雰囲気、空気がすでに王党支配の復活へと向かっていたんですね。
あやふやな、いかがわしいと思われる荘園は全て廃止され、公領へと戻されることとなっていきます。

つぎに、後三条天皇は藤原氏に抑え込まれていた中級貴族や源氏(村上源氏)を、次々と、政権の重要ポストに積極的に登用していきます。
これによって、この頃から、皇族の血統を持つ源氏たちが藤原氏に代わって政界を牛耳っていくことになるのです。
膨大な利権を藤原氏が得ていたということは、その分、様々なところで抑え込まれていた人たちが存在していたということです。
だから藤原氏が没落していくことで、その抑え込まれていた圧力が一気に噴出していくことになったんですね。
それは、源氏たちだけではありません。その最も代表的な存在として、この新しい政治形態を積極的に支持した「受領」という役人たちがいました。
なんという矛盾
受領というのは、守(かみ)・介(すけ)といった国司(地方官)に任命された際に、現地に赴き年貢の取り立てを指揮する役人のことです。
藤原氏をはじめとする上流階級は、国司になっても実際に地方に赴任するということはありません。
自身は都に住みながら、業務を肩代わりさせる代官を派遣して手数料を払ってやり、彼らは上前だけを懐に入れるからです。
ですが、中流以下の貴族たちはそうではありませんでした。いや、むしろ我が我がと手を挙げて、率先して現地に行きたがったのです。
なぜなら、受領という役目には大きな特権があったからなんですね。
受領たちは、現地で徴収した分のうち、所定された国税分だけを政府に送ってさえおけば、それで業務を果たしたことになります。
つまり、民から徴収した分から、中央に収めた所定された一定の税を差し引き残った分は、全て彼らのダイレクトな収入源になったわけです。
都では藤原氏たちが美味しいところは全て独占しています。中流以下の貴族たちは受領という数少ない残された特権を得るために必死だったのです。
彼たちは八方手を尽くして受領という役職につくと、そこから手にした金銭を中央政府にワイロとして渡して、さらにもっと実入りのいい地区の受領になろうとしました。
おそらく、受領たちは民から搾り取れるだけ搾り取っていたことでしょう。弱いものたちが、圧力を加えてさらに弱いものたちを叩くという最悪の仕組みです。
では受領たちが特権を得るのに、利害が最も対立する相手は誰かといえば、それは荘園の持ち主なのです。そう、最大の荘園主である藤原摂関家です。
つまり、荘園という私領が拡大すればするほど、受領が管理する国領である公領はどんどん少なくなっていくことになるからです。
荘園の持ち主でもある藤原氏は、一方で、中央政府を仕切り、受領の任命権を持つ政府高官でもあるのです。
なんという矛盾なのでしょうか。本来なら利害が対立する藤原氏に対して、中流貴族たちは、媚びへつらって受領に任命してもらなわなければならないのです。
ですが後三条天皇の改革により、時勢は源氏などによる王党の復活へと加速しています。かっての藤原氏の勢いはなくなり、もはや彼らは後退していっているのです。
この変革期を迎え、中流以下の貴族たち、受領層たちがどちらの支持に回ったのかは、あえて述べるまでもないことなのでしょう。
本気の決意
延久4(1072)年、後三条天皇は譲位すると、院庁を設置し次々と院司を任命していきます。
藤原能長、藤原実政など同じ藤原氏でも、反摂関家の立場を取っていた、いわば藤原本流ではない人たちを要職に就けていったのです。
これまでにも、院庁が設置されることはありましたが、今回は、今までの引退した父君の世話役的なものとは全く違う特別な意味がそこにありました。
それは上皇として政治を監督する意思を強く持った、そう「院政」という意図が押し出された後三条帝の本気の院庁設置なのです。
天皇以上の力を持つ上皇となって天皇すらも監視していく。ましてや、摂関家ごときが国政を思い通りに仕切ることなど許しはしない、という断固たる決意だったのです。
しかし、天才的な戦略を持ってすべての下準備を整えてきた後三条院は、譲位後わずか半年で病によりこの世を去りました。
そして、その後三条院が築き上げてきた「王党の復活」をさらに盤石で強固なものに作り上げていくことになるのが、息子である白河天皇だったんですね。
承歴元(1077)年、鴨川を越えた白河という場所を開発させるために、白河天皇は法勝寺を建立しました。
白河という京都の東の入口に位置するその場所が、平安京を鎮護するための、重要な政治的・軍事的拠点のひとつだったからに他ありません。
また、高さ81メートルを誇る巨大な法勝寺の八角九重塔は、いわば、京へ入る重要な東の入口のランドマークとして捉えられていました。
ちょうど鎮護国家の役割を担う東寺にある五重塔(55メートル)が、南から京に入ろうとする人々たちの目印になったように、東から逢坂山を越えて京に入る人たちは、法勝寺八角九重塔を超えると京に入ったと認識していたのです。
法勝寺の建立は白河天皇による天皇としての最後の大事業でした。八角九重塔が完成した3年後に、白河天皇は次の堀河天皇に譲位を行ったのです。
そして譲位したのちに上皇として、院政という形を持って、その最高権力を思い通りにふるいました。
まさに法勝寺は白河上皇の権力、ひいては院政権力を示威する寺院だったんですね。
そう、地方豪族の間に一種の憧れのような感覚を与えるような、院政文化というべきものの一つの極点を示すものが、この八角九重塔であったのでしょう。