高瀬川    水面に映る夕暮れの街並み

鴨川の西を流れる高瀬川には、桜並木や風にゆれる柳がよく似合います。
高瀬川は木屋町通にそって流れていますが、三条から四条までの木屋町は京都有数の歓楽街です。ネオンサインが灯るBarから、ほろ酔いで窓を開けると高瀬川が流れていて、夜風が頬に少し冷たくいい気分です。

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でも散歩するなら、おすすめなのは四条木屋町から五条木屋町の間でしょうか。
人通りのない石畳の小径。日差しが遠のく午後、松原木屋町から落葉の流れる高瀬川を見下ろしていると、また人混みに戻るのがいやになります。人と車が行きかう河原町通りを、ほんの少し20メートルほど東へ歩くと、静寂な別世界がそこにあります。

高瀬川は、江戸時代に大坂から京都まで物資・人を運び込むために、豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が施工した運河です。
鴨川の水がひき入れられた木屋町二条の「一之船入」から、五条・十条を流れ伏見まで通じていて、伏見からは三十石舟で淀川を下り大坂に繋がります。

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伏見は舟の乗り継ぎ場として大いに栄え、人の往来も多く料理旅館や船問屋が立ち並んでいました。有名な寺田屋は観光地として今も賑わっています。
大正9年に廃止になりましたが、交通機関が完備されるという京都市の大きな発展に、高瀬舟の運行は貢献しました。

 

了以は慶長9年ごろに美作国(岡山県)を訪ねます。そこで、和計川に浮かぶ高瀬舟という、船底の浅い、浅川専用の舟を見ていたく気に入りました。そして、それと同じ船を作り京都の運河にとおします。高瀬舟がとおる運河なので高瀬川と名づけられました。

了以が和計川に行ってなければ、違う名前の運河だったかもしれません。
京都の人からすれば、それは困ります。高瀬川という名前だからこそ、土佐藩邸があり、旅館・幾松があって、坂本龍馬や桂小五郎がそこにいたとイメージできるのですから。
了以は、美作国の文化に触れる大切な出会いをしたと、のちに語っています。

高瀬川の最初の使用目的は、前回ご紹介しました方広寺の大仏を再建する物資輸送に利用する為のものでした。了以に高瀬川を掘る工事の許可を出したのは、徳川幕府です。朱印船の貿易による莫大な財力を持つ角倉家は、大坂の陣で徳川家につくした功績によって、家康の絶対の信頼を得ていました。

大仏は、寛永年間にはつぶされて寛永通宝になりましたが、高瀬川の舟運はいくつもの時代を経て、京都市と伏見をむすぶ重要な動脈となります。曳船と、その「ほーい、ほーい」という掛け声は江戸時代からの京都の風物詩だったのです。