春はあけぼの。それは余韻をもたせた日本的表現
四季折々の風物が見事に描写された「枕草子」。
清少納言の観察力と感性の鋭さで描かれた、その平安文学の傑作は、今日読み返されても色あせることはありません。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」
この有名な冒頭にでてくる春の描写は、朝日の昇る東山連峰の光景をとらえたものです。
春で最も美しいのはあけぼのである。と言わずに、「あけぼの。」と名詞止めにしてあとは省略する。
察してくれよと、全部は言わない典型的な日本人の表現なのです。
一条天皇の中宮である定子(ていし)に清少納言は女房として仕えていましたので、住居していた内裏の回廊から、早朝の東の風景を細やかに観察していました。
暗く雄大にみえた東山がうっすらと明るくなり、それが徐々に広がっていく。
山頂に太陽が顔を見せると、その輪郭がすこし朱く染められ、紫がかった雲のいく筋かが山のうえにたなびいた。
そんな風に見えたのでしょうか。
新たな場所で出会えた人たち
正暦4(993)年、ときのひと中宮・定子のもとに清少納言は初出仕します。
一条天皇のもとに定子が入代してちょうど4年目を迎えた華やかな定子サロンへの仲間入りです。
一条天皇は14歳で、定子18歳、清少納言は20代後半のときでした。
定子に仕えたばかりの彼女は何をやってもうまくいかず、恥ずかしさに耐えきれないで涙を落とす日々が続いていました。
なにかにつけては自室に戻ろうとし、定子の御前に参上しなければならないときは、几帳の影に隠れてできるだけ目立たないように小さくなっていたのです。
ただ、そんな日々のなかでも持ち前の洞察力を発揮し、内裏のなかをくまなく観察していました。
今までの人生からは思いもおよばなかった華やかな宮廷生活に触れることになり、緊張感よりも好奇心がはるかに上回ると、その体験を「枕草子」としてここから結実させていくことになります。
そして、しばらくすると、清少納言は内裏の雰囲気にどんどん馴染んでいく自分に気づきはじめました。
定子や先輩女房たちとの間柄も非常に良好でした。心の通い合った女同士で集まる職場ほど楽しいところはありません。
内部の雰囲気が良くてみんなが一枚板になっていれば、外部からの攻撃や中傷も跳ね返すことができます。
彼女にとっては大切な、そんな場所が舞台となっていたからこそ、歴史に残る傑作は生まれたのです。
一方で、この時代の宮廷の世界では、日常で男女が間近に向かい合うということはあまりありませんでした。
男が女を見る場合は「垣間見」るときが多かったのです。
それは例えば、渡殿の戸口が開いているとき、障子が細目に開いているとき、御簾がたまたま開いていたときなどです。
もともと室内は暗く、女はみだりに人前に姿を見せなかったので、男は女の容姿をはっきり捉えることができませんでした。
さらに、行動範囲も現代とは違って極度に限定される狭い世界だったので、その女性の評判や噂はすぐ耳に入ってくる。
姿はよくわからないのに予備知識や情報だけがせっせと入ってくるので、身近な異性に対する男の好奇心は高まるばかりでした。
清少納言は宮廷という特有の世界で生まれたその男性心理を的確にとらえ、そのおぼろげな情感を感じ取り、見事に作品に表現しているのです。
信じている 強さがいいと
清少納言の才能発揮のスピードを加速させたのは、目にかけてくれた定子のやさしさでした。
二人の揺るぎなき関係は宮廷を和やかな世界へと導いたのです。
ですが、清少納言が定子に仕えて2年ほどたったときに、偉大なるひと中宮に悲しい出来事が起こります。
定子の父、関白・藤原道隆が病死し、関白家が坂を転がるように勢力を失っていきました。
そして、しおれた花が足で踏まれるように、兄・伊周と弟・隆家が配流される悲劇が襲いかかるのです。
さらに実家の二条宮が全焼。すぐそのあとに母・貴子が亡くなります。
ところが、定子はこの逆境に屈することなく第一子・脩子内親王を見事に出産します。
駆けつけた清少納言や宮廷の女房たちに囲まれた定子は、そのとき、赤ん坊を抱いて静かに微笑んでいました。
定子の一家の悲哀と闘いの日々を、自分自身のことのように感じる清少納言の筆は、このとき何かにとり憑かれたように冴えわたっています。
皮肉なことに彼女の情感は大きく揺さぶられ、その才能をさらに開花させていくことになるのです。