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京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

平安京の誕生  それは革命のとき 長岡京をあとにして

山の背後へ

延暦3(784)年、桓武天皇は平城京を棄てさり、長岡京への遷都を行いました。

ですがその長岡京も僅か10年という短命に終わり、さらに平安京へと遷ることになります。

平安京は現在の京都市内であり、長岡京は現在の京都府の向日市・長岡京市にあたります。

位置関係でいうと、平安京の正門・羅城門があった九条通りから長岡京市内までは、車だと移動時間30分、わずか20キロほどの距離です。

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この長岡京、平安京の遷都は一括して「山背」遷都と呼ばれています。

「山背」(やましろ)とは、平城京から見た奈良山の北側の国、そう、山の背後にあたる国ということです。

のちに平安京に遷都されるときに「山背」は「山城」に改められるのですが、山の背後に政治的拠点が移された理由として、桓武天皇のある思惑がありました。

それはどういうことかと言うと、桓武天皇は古い因習を断ち切りたかった、つまり、平城京の影響が全く残らない新しい首都創りを目指したんですね。

奈良時代、平城京時代というのは、平城京に遷都された元明天皇時代から始まった天武系の系統、つまり、天武天皇の血脈関係にある天皇の間で皇位継承がなされてきた時代であり、称徳女帝によって終わりを告げました。

それに対して、光仁天皇から、桓武、平城、嵯峨へと続いていった、天智天皇系で連なった時代が平安時代です。

王朝系統が交代するのだから遷都を行いたいと桓武天皇が考えるのは自然であり、エポックメイキングな建都であったということも間違いないのかも知れません。

{* 光仁天皇の皇位継承はかなり高齢になってからのことで、長岡遷都のときにはすでに他界していたので、すでに桓武天皇の時代となっていました。}

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水源都市 長岡京

また、長岡という地が遷都の場所として選ばれたのは、環境問題や交通利便という現実課題の解決手段の場として重要な意義をそこに持っていたいう理由があったからです。

なんといっても、平城京の近くには大きな河川がありません。

北に木津川が流れているといっても、ほとんど京都よりであり、かなりはずれた位置に流れているのです。

この時代、人口密集地域で河川があるかないかという問題は、衛生面という生活環境の核となる現実に大きく影響を及ぼすテーマでありました。

当時の平城京の人口はおよそ10万人と予測されているのですが、これは現在の東京都を大きく上回る人口密度にあたります。

さまざまな史料によって検証されているのですが、この頃の平城京はかなり汚染されていて、公害などで、もう首都としては限界にきていたのです。

一方で、長岡京には淀川が流れていて、それは難波湾、大阪湾に脈々と注いでいく大河川なわけです。

豊かな水源は清潔な衛生環境をもたらし、水運の利便は水上交通の発展に大きく貢献されるんですね。

ではなぜに、このいいことづくめの未来都市、長岡京は、たった10年という短命で終わってしまったのでしょう。

クーデターの結末

長岡京が着工された翌年の延暦4年、新都の造営長官であった藤原種継(たねつぐ)が建設現場で暗殺されました。

大伴氏、佐伯氏を中心とした遷都反対派によるクーデターだったのですが、逮捕者の大半が東宮坊の官人でした。

東宮坊の官人、つまり皇太子付きの役所に属する役人たちです。

これによって、種継暗殺の黒幕は桓武の弟である早良親王であると判決が下され、親王は廃太子されたうえに流罪となったのです。

無実を訴える早良親王は、淡路島へと護送される途中で、自ら食を断つことによって憤死しました。

さらに、クーデターの関係者も次々と処罰されていき、新政府の抵抗勢力は一掃されることになります。

ところが、それから3年経った延暦7年、桓武天皇の周囲に不幸が相次ぎました。

夫人の藤原旅子が他界し、母の高野新笠、皇后・藤原乙牟漏と身内が次々と没するなか、北の蝦夷との戦いにもあっけなく敗北するのです。

このとき、桓武天皇の胸のなかに、ある不吉な思いが芽生えはじめました。「これは、早良の怨霊の仕業ではないのか」と。

この時代、そう1200年前という世界では、怨霊というものが現実に存在するのだという認識を誰もが当たり前に持っていました。

天災や疫病など身に降りかかる不幸は怨霊の仕業だと本気で考えられていたのです。

大怨霊・長屋王が奈良の大仏の霊威をものともせず、そのタタリによって天武王朝を滅ぼすさまが多くの人々によって語り継がれているのです。

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無実の罪で憤死したものこそが最強の怨霊になるという信仰は、当然ながら、桓武天皇の意識下にもしっかりと根付いていました。

でも、早良親王が怨霊化しただなんて絶対に認めることは出来ません。

なぜなら、そんなことをすれば、早良親王に下した審判がでっち上げだと公に認めてしまうことになるからです。

ところが、そんな悠長なことを言ってられない事態に長岡京は陥ることになります。

延暦11年の6月と8月の2回に渡り、河川が氾濫し大洪水が起こったのです。

よりによって、新都が一度ならず二度も短期間に洪水に襲われるなんてことは、当時の人々にとってタタリ以外の何物でもなかったのでしょう。

新都市にさまざまな潤いと恵みを与えてくれた河川が、今度は大きな災いをもたらす魔神となって人々に襲いかかったのです。

もう、なりふり構っていられません。桓武天皇は早々に怨霊対策に取り掛かります。

すぐさまに、諸陵頭調使王等を淡路国の早良親王の墓に遣して霊に奉謝するとともに、その周りに堀をめぐらすなど、より熱心に早良の霊の慰撫につとめているんですね。

そして、ついに延暦13年、長岡京の10年にケリをつけ、平安京への遷都を行ったのでした。

そう、ハッキリと言い切ってしまうなら、平安京に遷都された理由は、早良親王の怨霊からの逃避するためだったのだと言えるのです。

怨霊信仰と仏教

日本の歴史とは怨霊の歴史であり、外来である仏教が日本人にすんなりと受け入れられたのも、怨霊の鎮魂に為政者たちが期待をこめていたからです。

最終的に朝廷は、エリートの最澄よりも、空海のほうを寵愛しました。

その証拠に、平安京の官寺であったという広大な寺領を誇る東寺は、教王護国寺の名のもとに空海に与えられているではありませんか。

それは最澄が空海に劣っているということではもちろんなく、空海がもたらした「密教」が優遇されたからです。

呪術式色を強く持つ密教というのは加持祈祷を中心とする仏教です。

加持とは仏の加護によって、人が病気や災難から救われるように祈ることなのですから、対象が護国にかわったとしても魔を排してくれるに違いないのです。

1200年前のテクノロジー

平安京とは四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)相応の地。それは、怨霊が近寄れないように魔除けが完備された場所です。

方位を四神に分けるとはどういうことなのかというと、その東西南北に神として象徴されるものがあればいいということです。

平安京には、東に流水という大河(青龍)賀茂川があり、南には巨大な湖沼(朱雀)巨椋池があり、そして西に街道(白虎)西国街道、北には高山(玄武)船岡山があります。

このように平安京とは四神に相応した土地であるということに間違いはありません。

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これら「風水説」によって設計された都である平安京。

そして、この風水のことを平安京では「陰陽道」(おんみょうどう)といい、それを司る当時の国家公務員を「陰陽師」(おんみょうじ)と呼んだのです。

陰陽は、1200年前の人々にとって一種の科学でした。迷信やまやかしの類などではなく、天文学や暦法に基礎をおく、ひとつの理論体系なのです。

人を呪ってワラ人形に釘を打ち込み、「ふふふ」などと薄く笑って、憎む相手の凶運を祈るというような邪心とは質的にぜんぜん違います。

政治や軍事にこれを応用して千変万化するところを前例として蓄積し、経験値の集積をまた活用することによって事象の解釈を深めていったのです。

そして、桓武天皇が平安新京に移った日付けについても陰陽道の影響があったことが確認されています。

桓武天皇が平安京に移ったのは延暦13(794)年10月22日のことでした。

この日は辛酉(かのととり)、すなわち陰陽道でいう「革命」のときにあたるのです。