後世への影響力
偉大な功績を讃えられたことで、伝教大師という諡号を与えられた最澄。そして、その永遠のライバルであった弘法大師・空海。
最澄は日本天台宗の祖であり、空海は真言密教をこの国にもたらしました。
この天才宗教家ふたりの根本的な違いとは何か。
それは、最澄の顕教に対して空海の密教という形式的なことだけではありません。
後世の日本宗教界への影響力がまるで違った、ということを挙げることができるんですね。
いわゆる鎌倉新仏教と呼ばれる日蓮、道元、親鸞といった開祖たちは、すべて、最澄の拠点である比叡山・延暦寺で基礎を学んでいます。
そう、日蓮の法華経、道元の禅、親鸞の戒律、そして密教(天台)、これらの基礎流派を中国から印可を受けて持ち帰ったのは最澄でした。
つまり最澄は、鎌倉新仏教の開祖たちに多大な影響を与えた。彼の思想の影響を受けなかった新仏教の開祖はいなかったということなのです。
「最高の教育者」「育てる人」(伝教)大師・最澄の本質とはそこにあり、空海とは違って、最澄自身が「本尊」となった寺は一つもないのです。
一方で、空海の「弘法大師信仰」は今でも根強く、お大師さんが本尊になっている寺は全国に数多くあります。
あの川崎大師では本尊の厄除弘法大師像を、「弘法さん」と親しみを込めてみんなで呼んでいるんですね。
空海の真言宗は、密教という世界観の中を深く浸透していくことで極められたものなのであって、最澄の仏教のようには派生的に影響を及ぼすものではなかったのです。
遣唐使
舒明2(630)年から始まり、寛平6(894)年に、第19次の大使であった菅原道真によって廃止されるまで続いた遣唐使という制度。
それは、唐の文化や国際情勢を学ぶことを目的とした、留学生や留学僧を派遣した公式使節のことです。
大使、副使、通訳、医師、水夫や従者とともに500から600人で構成されていました。
まだまだこの時代では航海術は未熟でしたので、東シナ海を渡るのに何度も何度も難破してしまうために、航海はまさに毎回命懸けだったのです。
そして、偶然にも同じ第16次の派遣に乗り込んだのが、最澄と空海でした。
それは4船の遣唐使船で構成されていたのですが、空海が第1船に、最澄は第2船に乗り込んでいます。
よく歴史教科書などでは、ともに仲良く唐に渡った僧として一緒くたに括られているのですが、とんでもない、二人に対しての国の扱いには天と地ほどの違いがあったのです。
すでに桓武天皇に揺るぎない信望を寄せられていた最澄は朝廷から任命された還学僧として船に乗り込んでいたのであり、空海は、まだ名もなく、その他大勢の留学僧のひとりでしかありませんでした。
還学僧に対しては旅費全額を国が負担し、通訳や従者も付けてくれるという好待遇でしたが、ただの留学僧に対しては、旅費全額自己負担、身の周りのことは一切自分でしなさいという冷待遇だったんですね。
そしてこの第16次使節団も激しい嵐に遭遇しましたが、空海を乗せた第1船は1ヵ月ほど漂流した後、無事到着。
最澄を乗せた第2船も、2ヵ月ほど漂流した後なんとか到着したのですが、第3船は到着ついにかなわず日本へ帰船、第4船に至っては行方不明になってしまったのです。
密教
唐で学ぶ時期が同じタイミングとなった最澄と空海でしたが、二人が一緒に同じエリアで過ごすことはありませんでした。
最澄は天台宗の本山である天台山へ上り、長安の都へ足を踏み入れることはなかったからです。
反対に、空海は梵語(サンスクリット語)を学び、真言第七祖の恵果阿闍梨に教えを乞い密教を習得するために長安へ滞在しました。
歴代の皇帝から国師と尊敬され、千人を超える弟子を持ち、中国密教の頂点に立つ恵果阿闍梨。
その恵果阿闍梨が、密教を継ぐにふさわしいのは彼しかいないのだと、秘伝のすべてを空海に伝授したのです。
密教の授戒を受けた空海が、儀式をわずか3ヶ月という異例のスピードでこなし、阿闍梨の位をさずかったのは32歳のときのことでした。
そして唐に来てから2年、密教のすべてを習得した空海は、20年という定められた留学期間を全く無視して帰国します。
国が定めた滞在日数を勝手に短縮するなんてことは本来なら死罪に値するのですが、空海には自分が習得した密教に絶対の自信があり、必ずや国家鎮護のために役立てることが出来るんだと確信を持っていたので、恐れるものなど何一つなかったのです。
ただ、入京することはなかなか許されず、しばらくは太宰府に留まることになります
帰国にあたり空海は、多くの経典や貴重な書物、恵果から譲り受けた密教の法具を持ち帰っています。
空海が寝る間を惜しんで引き写した貴重な何百巻とある書物。それらは「請来目録」という一覧にまとめられ朝廷に提出されました。
その空海の「請来目録」にもっとも注視したのが、他の誰でもない最澄だったのです。
短期留学が条件だった還学僧の最澄は空海の一年前にすでに帰国していたのですが、彼が取得し持ち帰った天台教学よりも、すでに時代の要請は密教に傾いていたのです。
最澄も密教の灌頂を中国で受けてはきたのですが、それは十分なものではないのだと、彼は心のどこかで感じていたのです。
だから、密教の経典が整然と記されている空海の目録の凄さに最澄は圧倒されることになりました。
その完成度の高さを目にしてしまったために、たかが留学僧であるはずの空海の実力を認めるしかなかったんですね。
そしてこの後、しばらくして空海は入京を許されているのですが、それは最澄による朝廷に対する強力な要請が裏で行われていたからだと言われています。
文字とは月をさす指
空海が入京すると、さっそく最澄は乙訓寺に滞在していた空海を訪れ、密教の灌頂を授けてほしいと願います。
世に名を馳せた高僧が頭を下げて頼み込んだのです。なんという潔さ、器の大きさでしょうか。
普通ならば自分よりも年若い、まだ駆け出しの僧に頭など簡単に下げられるものではありません。
でも最澄には道を究めなければならないという強い欲求があったのです。そこには強い信念があった。仏の教えの中に答えを求め続けていたのです。
もちろん、感銘を受けた空海も涙を流しながら最澄の願いを聞き入れたといいます。
ですがその後、最澄と空海のやり取りはしばらく続いたものの、ある時、最澄が貸してほしいと求めた「理趣釈経(りしゅしゃっきょう)」という本を空海が断ったことで二人の間に距離が生じることになります。
実はこれには、密教自体に大きな原因があるのです。わかりやすく言うと、密教というものには、言葉を超越したものだという根本的理念があります。
この時、空海が最澄にお断りをした手紙が残っているのですが、その中身は、「文字とは月をさす指にすぎない」という内容でした。
たとえば、空の彼方に浮かんでいる月を指して「あれが月だ」と人が言います。
この場合、月はあくまで指の示す方向の先に出ているのであって、指が月なのではありません。
同じように文字(指)が示すのは月(真理)のある方向であって、文字(指)そのものが月(真理)なのではないのです。
そして人材は育つ
つまり、密教とは面授を重んずるのであり、悟りの内容を文字だけによっては十分に表現できないのです。
特殊な象徴を使って心から心へと伝えるものなのだから、経典だけを熟読しても不十分だということなんですね。
空海が最澄に伝えたかったのは、「真に密教を取得されたいなら経典ではダメです。他のすべてを捨てて、何年もかけて、体ごと私の弟子になってくれるぐらいでないと相承していくことはとても無理でしょう」ということだったのです。
ただ、比叡山・延暦寺という宗教大学の統括でもある偉大なる開祖に、密教の受法だけに時間を費やすことを求めるなど土台無理というものです。
二人の間に距離が生じたとしても、それは仕方のないことだったのでしょう。
この密教というものに対しての、いまだ源底をつくしたという自信がいつまでも持てないという最澄の思いは続いていくことになります。
同時代に空海という天才が存在し、しかも、その天才は密教を極めている。
それに対して、「密教の教義に対する自身の習得レベルのこの非力さはどういうことなのだ」と、そんな悔しい気持ちを最澄はいつまでも払拭することが出来なかったのです。
ですが、そんな師の密教に対する心残りを代わりとなって解消するかのように、天台宗の密教に力を注ぎ極めたのが、あの円仁(慈覚大師)でした。
円仁は唐に渡り、密教を一から学び直します。その記録こそが「入唐求法巡礼行記」であり、宗教文学としての旅行記として最高のものだと評価されているのです。