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時代の覇者となった平清盛 武士が表舞台に登場した背景

六波羅

俳優の仲代達矢が大河ドラマで平清盛を演じることが決まったとき、訪れたのは、京都・松原にある名刹・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)でした。

役作りのために、境内に安置されている清盛の木像を仲代は一身に見つめていたのです。

平安時代後期、この六波羅蜜寺を中心とする周辺一帯には平家一門の屋敷が立ち並んでいました。

清盛像を含め、そんな六波羅エリアの空気感みたいなものを感じ取ろうと、その名優は何度も通い詰めたといいます。

 

端座して経巻を読んでいるその清盛像の表情は、慈悲深いようにも見え、一方で、底なしの恐ろしさを秘めているようにも見えるんですね。

そうして完成された仲代演じる清盛は、悪の非道を極めた血も涙もない、武家の棟梁となって画面に登場したのです。

平家にあらずんば人にあらず

仁安2(1167)年、公家たちが世の中を支配していた時代に、武家という身分でありながら太政大臣・従一位にまで平清盛は登り詰めました。

清盛の出世はそのままに平家一門の繁栄を伴い、政界の重要ポストは彼たちによって占められていくことになります。

公卿という、いわゆる貴族レベルになったものが16人、殿上間に上れるもの30余名、宮中の護衛や役人になったものを含めると90余名を数えたのです。

そして清盛の権勢を決定的にしたのが、娘の徳子が高倉天皇に入内して女御となったことでした。

ふたりの間に生まれた皇子は安徳天皇となり、まるで、かつての藤原氏の歴史を習うかのように、天皇の外祖父となった清盛がこの国の実権を握っていくことになるのです。

平氏は武家といっても、もともと桓武天皇の孫にあたる高見王の血統で、皇族を離れ臣下の籍に降りたときに「平」姓を賜っています。

ですが、何代も武家として地方に定着するうちに身分は低くなってしまったのです。

その身分から平氏はここまで繁栄することが出来たのですが、勿論、それは清盛ひとりだけの功績によって成されたわけではありません。

治天の君

清盛が太政大臣になる、ちょうど1世紀前の時代の頃まで、この国の政治の実権を握っていたのは藤原氏による「摂関」体制でした。

あの平等院鳳凰堂を建てた藤原頼道の時代からその体制に陰りが見えはじめ、天皇家側の権威は徐々に復活の道へと導かれていくことになります。

そして、延久4(1072)年、後三条天皇が譲位することにより「院政」が進められて、院庁始、つまり院庁開きが行われたのです。

院政というのは、上皇が「天皇の父」という一種の家父長的権威をうまく利用して、朝廷よりも実権を持った「院庁」を設立し、それを行政機関とするものです。

院政により、天皇や、左大臣・右大臣といった太政官の権力が事実上無力化されて、上皇による専制政治が可能になるということなんですね。

 

これを創案し、始めたのは後三条天皇なのですが、息子の白河天皇(上皇)の時代になって、その権勢は確立されることになります。

出家して白河法皇となった頃には「治天の君(ちてんのきみ)」、まさに天を治める君主となり、天皇家の人間としては久しぶりに出た専制君主だったのです。

北面の武士

白河法皇の院政という独立政権を担保したものはなんだったのかというと、他からの妨害をいつ何時でも排除できるように「軍備」を携えていたということです。

院庁に「北面の武士」という直轄の法皇親衛隊が編隊され、いざ、クーデターが起きた時にはいつでも出動できるように布陣は配されていたんですね。

桓武天皇から始まった平安時代の日本には「国軍」というものが存在していませんでした。頭から、外交や軍事は国家に必要ないと考えられていたからです。

皇族や貴族があくまでも私的に武士団を形成して自身を護衛させることはこれまでにもあったのですが、中央政権の正式な制度に取り込んだのは、白河法皇が初めてでした。

そう、まさにこの時、武士という存在が歴史の表舞台に登場してくることになります。

そしてこの武士軍たちの中に、後に幕府を開くことになる源氏一族や平清盛の祖父である正盛(まさのり)も所属していたのです。

ところが、その国軍の中から朝廷に反逆を企てるものが出てきました。源氏・八幡太郎義家の嫡子である源義親(よしちか)です。

九州を攻め略奪し、続いて出雲国でも暴れ回ったのです。これに対し朝廷より追討命令を受けたのが平正盛です。

見事、義親を討ち取った正盛は白河法皇の絶大な信頼を得て、正盛の子である忠盛(ただもり)、つまり清盛の父ですが、その忠盛の代になっても法皇から信頼され続けることになるのです。

源氏にとっては、八幡太郎義家という棟梁の嫡子が反乱を起こしたのですからことは重大です。この時点で源氏の地位、勢力は急速に衰えていきました。

一方で平氏のほうは、正盛が築いた土台の上を、殿上人にまで出世した忠盛が抜群の経済センスで莫大な富を蓄え、一門を引き継ぎ、さらに拡大させていくことになります。

さらに、それを継承した清盛は、スタート時点から宮廷人としてある程度に確立された地位を持ちながら、やがて全国武士団の統率者となっていくのです。