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京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

法性寺  藤原北家 その偉大なる系譜の氏寺

藤原北家の摂関独占

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平安時代初期から後、藤原四家のなかで摂政・関白の座を独占したのは藤原北家でした。

かって勢力を誇示していた南家や式家は、相次ぐ政争に巻き込まれてすでに失脚していました。

院政期以降は形骸化したとはいえ、明治維新までの900年の間、分家しながらも藤原北家はその地位を守り続けていたのです。

まず最初に藤原北家の権力独占の大きな糸口を掴んだのは藤原良房(よしふさ)でした。

9世紀中期、良房の娘である明子(めいし)は文徳天皇に入代します。

そこに誕生した惟人親王が、清和天皇として9歳で帝位についたとき、良房は、幼少の君主に代わって政治を執り行う摂政の初例となります。

良房から甥で養子の基経(もとつね)へ、さらに、その子の時平(ときひら)へと、その絶対的権力は引き継がれました。

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ところがここで、藤原体制の権力独占を阻止するために、宇多天皇が菅原道真を時平の対抗馬に宛がい重要ポストに抜擢します。

当然ながら藤原一族は総力を挙げて、あらゆる手段を使って菅原道真を潰しにかかるのですが、そのやり方があまりにも酷いために、都における貴族社会に遺恨を残すことになるんですね。

宇多天皇に代わって醍醐天皇が即位すると、時平の陰謀により、道真は九州の太宰府に左遷させられてしまいます。

こじつけの理由は、道真が醍醐天皇の廃位を計画して、自分の女婿を天皇にしようと企てていたというものでした。

道真の九州での暮らしは孤独と絶望の日々でした。傾いた住居は、床は朽ち果て、雨漏りも酷いありさまです。

衣食ともにぎりぎりの状態で、重度の胃病や皮膚病にかかり、追放された2年後、ついに道真は命尽きました。

そして道真の怨念は怨霊へと昇華し、平安京に天地異変を巻き起こすことになっていくのです。

908年、陰謀に加担した藤原菅根(すがね)が突然死。さらに翌年には、首謀者の時平が不慮の死をとげます。

時を同じにして、旱魃、飢饉、疫病が立て続けに都を襲っていたため、道真のタタリに違いないと人々は恐れおののきました。

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この後も、時平の残された一家に追い打ちをかけるように、次々と不幸が起こったので、藤原一族すべての人達は不安に陥ります。

ですがこのような状況下のなかでも、まったく被害を受けていない一家がありました。

それは道真の左遷を最後まで反対し、陰謀に加わらなかった藤原忠平(ただひら)の系統です。

忠平は時平の弟なのですが、彼は道真と親しい間柄にあり、兄である時平のことをあまり好きではなかったんですね。

無念の死をとげた道真の怨霊を忠平は北野の地に祀ります。怨霊を祀ることにより藤原家の御霊へと変えてしまったのです。

その北野天満宮が藤原家の鎮守社となると、それまでの藤原摂関に不満を抱いていた貴族たち道真を慕っていた民衆たちは、次々と忠平に信望を寄せることになりました。

そして民心をつかんだ忠平の北野天満宮は、たちまちのうちに最も格の高い二十ニ社のひとつに数えられ、一条天皇の御代以来、頻繁に天皇の行幸をみることになるのです。

法性寺それは果てしなく広がる寺域

延長2(947)年、藤原家の氏寺となる法性寺(ほっしょうじ)を忠平は建立します。

北は法性寺大路(現在の泉涌寺道あたり)、南は稲荷山、西は鴨川、東は東山山麓におよぶ、気が遠くなるような広大な寺域をなしていました。

これは一度でも京都東山エリアを訪れた人なら、その規模をご理解いただけると思いますが、ひとつの寺の領域としては考えられない大きさの所有地なのです。

その後、兼家、道長を経て忠平の八代の孫にあたる忠通(ただみち)に至るまでの間に建増を繰り返し、金堂、五大堂、灌頂堂、三昧堂など、100堂を超える堂塔伽藍が建てられました。

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都の民衆から「御堂」と呼ばれた法性寺は、まさに摂関家全盛期を象徴する大寺であり、その壮麗さは極楽に例えられたのです。

藤原北家は良房から基経によってその基礎を築きましたが、この忠平によって「藤原摂関家」は確固たるものになったと言えるのでしょう。

子孫の忠通(ただみち)は京童から「法性寺殿」と呼ばれ、忠通の六男である兼実(かねざね)は「後法性寺殿」と呼ばれていました。

法性寺から東福寺へ

時は流れ、兼実の孫である道家(九条)は、ついに法性寺を捨てさり、その敷地に新しく禅寺の「東福寺」を建立します。

その結果、法性寺は東福寺に吸収されてしまうのですが、道家にはそうしなければならない政治的事情があったのです。

鎌倉政権の時代、源頼朝の介入によって藤原摂関家は近衛・九条家のニ家に分かれます。

その後、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が殺されたために、執権・北条泰時は次期将軍に九条道家の三男の頼経(よりつね)を担ぎました。

そのおかげで道家は二度も摂政になることができ、事実上、京都と鎌倉を支配することになるのです。

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道家が天台密教の寺・法性寺を禅寺の東福寺にしようとしたのは、北条泰時に対する政治的配慮がそこにあったからなんですね。

当時、鎌倉武士に必要とされた仏教は、知的でありながら雄渾なものでなければなりませんでした。

時代背景もあり、必然的に禅仏教が求められたのですが、それは禅が自分の心以外の偶像を一切認めず、生死を越えた「無」の悟りを重視する仏教だったからです。

そう、迷信なんかは排除して、己の心のなかに仏を求める。そんな禅仏教こそが鎌倉武士に最もふさわしい信仰だったのです。

こうして禅宗は鎌倉を発生として、その後に京都にも広まったのですが、道家は息子・頼経の将軍職を無事全うさせるためにも、摂関家の氏寺である法性寺を、禅寺である東福寺に改めざるを得なかったのでしょう。

為政 その難しきこと

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こうして東福寺の建立は道家の計画通りに進んだのですが、息子の頼経の将軍職はある問題のために苦難の連続でした。

その問題とは、根底の部分で払拭できない事情を抱え続ける鎌倉幕府の政権構成にあったらしいのです。

それは執権である北条家と、源頼朝を助けて鎌倉幕府を創った豪族や御家人との、いつまでも続く対立構造のことなのでしょう。

豪族・御家人に担がれた頼経は頻繁に北条氏と衝突して、寛元2年についに将軍職を解任されました。

すぐに息子の頼嗣に将軍職を譲るのですが、全く同じ事情で、頼嗣もすぐに将軍職を追われることになります。

道家も失脚して、失意のなかでその生涯を閉じることになるのですが、彼の死後、九条家は長男の教実、次男の良実、四男の実経が九条、二条、一条と分家し、近衛家もまた近衛、鷹司に分家したのです。

いわゆる五摂家の始まりですが、当然、分家による貴族の権力衰退を狙う雄渾なツワモノ達の干渉がそこにあったのではないしょうか。