誰もが振り返る美貌
平安時代、王朝の三才女と呼ばれたのが、清少納言と紫式部、そして和泉式部です。
この三人の女流作家は、ともに、一条天皇の中宮のもとに女房として出仕していました。
まず最初に、中宮・定子に仕えたのが清少納言で、その後に中宮となった彰子(しょうし)には、紫式部と和泉式部が順に仕えています。
定子サロンに変わり、新たにできた彰子サロンでは、紫式部と和泉式部の二人は才名の存在であり、絶妙な文の書き手としての才能を発揮していました。
そして恋愛歌人と言われた和泉式部のほうは、和歌の天才でもあり、町を歩けば誰もが振り返るほどの美貌に恵まれていたのです。
そんな彼女は、やはり、その時代の最高権力者であった藤原道長から「浮かれ女」と揶揄されるほどの激しい情熱と華の持ち主でもあり、男から男へと、業の深い恋愛を遊行したといいます。
和泉式部が最初の結婚をしたのは、彰子に仕えるずっとずっと前の十代の終わりです。
相手は、受領階級の橘道貞で、上司からの評判もよく有能な官人でした。
ですが、長保元(999)年、和泉守に任命された道貞が現地に滞在することになり、京に住む和泉式部は別居生活をおくることになります。
和泉式部という女房名はこの和泉守からきているのですが、皮肉なことに、夫の和泉守の任期中に彼女の情事は始まることになるのです。
いつわりの日々
道貞の留守をいいことに、冷泉天皇の皇子である為尊(ためたか)親王は、かなり強引に、何度も和泉式部に言い寄りました。
最初は拒絶を繰り返す和泉式部でしたが、あまりにも身分の違いすぎる高貴な男性からの導きに、ついには身をまかすしか、なすすべがありませんでした。
ですが、このことが瞬く間に世間に広がったために、道貞との夫婦関係は破綻し、彼女は実家からも絶縁を突き付けられてしまうのです。
それから、気がつけば2年の月日がたちましたが、共に暮らした為尊親王が病のために26歳の若さで亡くなることになります。
すべてを失い孤独な日々をおくる和泉式部のもとへ、ここぞとばかりに多くの貴族が言い寄ってきました。
寂しさに耐えられず、つかの間の逢瀬をかさねては別れる日々の繰り返し。そんな、いつわりの日々が続くことになるのです。
でも、そんな荒れた日々を過ごす彼女の姿を、影でそっと見守る一人の男性がいました。
亡くなった為尊親王の実の弟である敦道(あつみち)親王です。そのときの彼女よりも2歳若い容姿端麗な貴公子でした。
ある日、敦道親王は、今まで抱いていた密やかな思いを和泉式部に伝えます。
そう、静かにそっと、震えている彼女の心を包むように、言葉を伝たんですね。
初夏の日差しのなかで
その暖かい人柄にいつしか魅かれるようになった和泉式部は、このとき敦道親王に生きる意味を求めます。
永遠などありはしない、そんな愛の弱さを痛いほど知る彼女は、それでも、ただ幸せになりたかっただけなのです。
そして、公式に「召使」として敦道親王の自宅に迎え入れられることになり、一時も離れることなく、寄り添い暮らし始めました。
もはや二人には、周りが全く見えなくなっていたのでしょう。この出来事は、またまた広く世間に知れ渡ることになってしまうのでした。
初夏の賀茂祭の日、還立(かえりだち)の行列を、二人はひとつの牛車に乗って幸せそうに見物していました。
群衆からは丸見えでしたが、敦道親王は全く気にせず、和泉式部も堂々とした態度で同乗しています。
町の観衆たちは、賀茂祭の行列なんかそっちのけで、目を凝らして、この異様なふたりの光景に注目していたのです。
それから時は流れ、4年あまり続いた敦道親王との恋は、27歳の親王の病死によって終わりを告げました。
敦道親王と暮らしたこの4年間は、和泉式部にとって特別な期間であったようです。
それは、この時期に書きのこされた数多くの作品が、情感に溢れた傑作であったことによって証明されています。
陽のあたる場所
和泉式部が中宮・彰子のもとに仕えることになるのは、ちょうどこの1年後になります。
彼女はこの時30歳をすぎた頃で、歌人として著名な存在であり、ときの権力者、藤原道長から娘・彰子の女房として是非にと勧誘されているんですね。
道長が彼女に「浮かれ女」といったのは、ただ単にからかったのではなく、その突出した才能ありきの前提であって、情事の噂なんかは全然大丈夫だよ、という含意がそこにあるのです。
初めての出仕では、先輩の紫式部からも大いに歓迎され、和泉式部の姿をひと目みようと人だかりができました。
これは決して、賀茂祭の日に男女関係による興味本位で注目されたことと同じ意味ではなく、彼女の表現する和歌の才能に対してのものだったんですね。
そして、道長に導かれたこの宮廷で、生涯で最も愛することになる、大切な最後の人と和泉式部は出会うことになるのです。