こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

応仁の乱  失われた平安京

空位となった将軍職

応仁元(1467)年から11年間にわたって続いた「応仁の乱」によって、中世の京都は完膚なきまでに焼き尽くされ、焦土と化しました。

応仁の乱は、足利将軍家や有力大名たちの家督争いからはじまり、やがて全国規模の軍事的な衝突へと拡大していったのです。

ですが、乱のはじまる25年前、魔王将軍・足利義教(よしのり)が暗殺されたことによって将軍家の権威が没落し、有力大名たちを統治できなくなったとき、その前兆はすでに秘められていたのかも知れません。

恐怖統治による強力な政治権力を確立していた義教に対して諸大名たちはその顔色をうかがうことしか出来ませんでした。

ですが、義教が守護大名の赤松満祐に暗殺されると、一転、有力大名たちは争って好き勝手な行動をし始めるのです。

暗殺という悲劇にみまわれたことによって突然にこの世を去ってしまった将軍・義教。でも、その子供たちはまだ幼すぎました。

上の子である千也茶丸(せんやちゃまる)はこのため9歳で元服し、七代将軍・足利義勝となりましたが、翌年には赤痢にかかってあっけなく死亡。

この後を継ぐのが八代将軍・義政となる三寅(みとら)なのですが、この時、まだわずか8歳だったんですね。

千也茶丸の一件もあり、三寅が成長するまでの間は将軍の座は空位とされ、代わりに管領・細川持之を統括とする有力守護大名たちに指揮権は委ねられたのです。

優しさを弱さと笑われて

そして、その有力大名たちの勝手我がままな振る舞いは、三寅が成人し八代将軍・義政となってからの時代でも収束することはありませんでした。

六代将軍・義教とは違って、その息子である将軍・義政は歴史上まれにみる「心優しき将軍」だったのです。

ですが、ときに優しさは弱さと笑われます。

相手の心境を常に気に留めて接するような軍事リーダーでは、欲望に支配された海千山千のしたたかな大名たちを統治することなど到底無理だったのでしょう。

守護大名たちにとって、家督を継ぐことが出来るか出来ないかという問題はまさに生死を分ける最重要テーマでした。

栄華を極められるか、部屋住みとなってやがて追い詰められていくのか、まさに天と地の差が出るのですから、本来なら内紛が起こらないほうが不自然なのです。

その大名たちを絶対的な支配権で統治し、腕力で頭を押さえつけていたのが三代将軍・義満や六代将軍・義教といった歴代のエリート将軍たちでした。

残念ながら八代将軍・義政にはその任に堪える能力もなければ、その義務を積極的に果たそうとする姿勢すらも見られなかったのです。

二度と見ることの出来ない景観

応仁の乱というのは、とにかく、京都の街を跡形もなく焼野原に変えてしまいました。

なにしろ市街戦だったので、歴史的な邸宅や貴重な寺社仏閣をなんとか守ろうとしても、ホントに打つ手がなかったのです。

南禅寺、相国寺といった室町幕府を支えた五山を中心とした禅宗勢力もことごとくその拠点を失い、その他の有力寺院、摂関の邸宅を含む貴族住宅も全て焼け果ててしまいました。

この宮殿のような公家たちの邸宅こそが、池泉式庭園を備えた寝殿造りと呼ばれた平安京を代表する貴重な文化建築だったんですね。

この住宅群がこのとき一斉に失われて、その後、再建もほとんどされませんでした。

だから平安時代から継承されてきた本当の平安京の景観というものが、この時の京都の街から完全に失われてしまったために、未来永劫二度と見ることが出来なくなってしまったのです。

 

「京」という場所でしか存在することができなかった公家たちは本当に途方にくれました。

公家のなかでも身分が低かったり、財力のない者たちは当然のことながら、関白まで勤め上げたことのある最高クラスの官人たちまでが地方へと都落ちすることになるのです。

戦争が続いたのが1年や2年というならば、また状況は違っていたのでしょう。でも、11年という気の遠くなる月日の間、地獄のような状況は続いたのです。

焼野原というのは決して大袈裟な表現ではなく、残された資料によると、焼け跡の京都にはヒバリがあちこちに巣をつくったそうです。

そう、ヒバリというのは一面何も見えない荒野にしか巣を作ることはないんですね。

人間に対する警戒心が非常に強いヒバリを都会で見ることはできない。本来なら最も人口が集中しているはずの、その都が一面ヒバリの巣になってしまっていたのです。

現在、日本全国に「小京都」という文化を引き継ぐ都市がいくつか点在していますが、これは五摂家などの比較的規模の大きな貴族たちが戦火から逃れるために疎開し、そこに土着したことによって都の風土が伝わったそうです。

傷つき打ちのめされた公家の一族たちを、疎開先の人々は何も言わず黙って迎え入れてくれました。

「みやこ人」気どりでうぬぼれていた貴族たちは己の恥を知り、心から現地の人たちに感謝し、残されていた資産を街の発展に役立ててもらえるよう提供します。

そう、公家たちは京に戻って政治家として活動する気力をもはや失い、この心優しき人たちとともに生涯暮らしていくことを選んだのです。

先送りの酬い

応仁の乱が何故に11年間という長きにわたって続き、いつまでも収束させることが出来なかったのかというと、それは全て将軍・義政のせいなのでしょう。

最高権力者である義政はとにかく優柔不断な人物でした。為政者として最も必要とされる「決断力」を全く備えていなかったのです。

彼の権限と地位を持ってすれば決断は充分に可能であろうと思われる問題ひとつひとつを、いつも先送りしたために、これだけの毒害が広がったのです。

14歳のころから将軍職を担ってきた義政は、もううんざりなんだと、早くからその重責から逃れようとして、僧侶となっていた弟を無理やり環俗させて後継者にしようとします。

ですが、子は望めないと思っていた妻の富子に男子が生まれました。

当然ながら富子は息子を次期将軍にしようと躍起になるわけで、弟なんかに跡目をゆずらないで、息子が成人するまで将軍を続けるように義政に迫りました。

でもそれが実現したら、いい面の皮なのはわざわざ環俗までした弟の義視のほうです。

どちらにもいい顔をしようとする義政は、結局、強い決断を下せずに逃げ回ることになるのです。

そしてこの状況につけこむように、名家の有力大名である畠山氏や斯波氏がお家の相続争いを絡めて身内同士で戦いはじめ、さらに力を持つ細川氏と山名氏が各陣営をバックアップするように相反することとなり、ここに戦いの火蓋は切られたのです。

これが応仁の乱のはじまりなのですが、ことが起こってからも義政の煮え切らない態度は続きました。

戦いが続く中で、そのときどきの優勢な軍のほうの言いなりに必ずなってしまうのです。

両軍の大名たちからの脅迫や懐柔がたとえあったとしても、本来ならば、最高権力者として絶対中立の立場を義政は貫かなければなかった。

それも出来ないうえに、将軍という立場にありながらモタモタしてなんの手も打たない。

ついに戦いは京の市街戦から全国規模の紛争へと拡大してしまったのです。

下剋上

一方で、この戦でなにもかもが消えうせたということは、これまでの価値観もすべて消えうせたということです。

幕府の権力が弱体化したことによって、これまで歴史の舞台に出ることのなかった勢力が、次々に登場してきました。そう、この時代こそが下剋上のはじまりなんですね。

公家とは違って、武力でのし上がっていこうとする武士たちにとって、このカオスの時代はまさに千載一隅のチャンスであったわけです。

たとえば、越前国の国人であった朝倉孝景がそうです。越前守護の斯波氏の代官に過ぎなかった孝景は、この混乱を利用して越前を乗っ取ってしまった。

そして、日本初の戦国大名はこの朝倉孝景だというのが最も有力な説となっています。

斯波氏などの守護大名は京都に常駐しているために、有能な代官に領国の留守を任していました。

当然選ばれている代官の国人たちはその国で最も有能なわけですから、状況を冷静に分析して、自己保身だけの馬鹿な戦争を繰り返す親分たちから領国を乗っ取ってしまうのです。

つまり、室町幕府から正式に守護職に任命されたわけではないのに、その領国を実質的に支配しているのが「戦国大名」の定義だといえるのでしょう。

戦国大名というのは一色氏や武田氏のように正式な守護大名から戦国大名に変わった家もわずかに存在しますが、やはり、圧倒的に多かったのは守護代の家系なんですね。

そして、その守護代から成りあがった中で最も有名なのが、尾張の織田氏と美濃の斎藤氏です。

やがて時を経て、この国に本当の意味での革命を起こした英雄、あの織田信長がこの尾張国から誕生することになるのです。