こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

読み手にスラスラと文章を読んでもらいたいという書き手の思惑を遮ってしまう最大の要因は読点「、」にあるんです

最後までとどく

少し長めの、伝えたい内容を区切らずに続けて1文にまとめたいとき、「中立法」を使って接続表現するという方法があります。

「あります」というよりも、どこの何に出ている文章を読んでも必ず出てくる表現方法なのですが、極論を言えば「中立法」を使って繋げていけば、どこまでもひとつの文を続けることが出来るんです。

 

中立法の表現のパターンは2通りあるのですが、ひとつが「~し」形と言われる連用形で表されるタイプで、もうひとつが「~して」と呼ばれる連用形に「て」がついたタイプになります。

「~し形」  話し 走り 続け 読んで あり 

「~して形」 話して 走って 続けて  

中立法は補語の通過を許します。補語を食い止めないんですね。

Ⓐ裕子に会って、そのことを伝えよう。

「裕子に」の補語「に」は「会って」を通過して「伝えよう」にも係っていき、

裕子に(そのことを)伝えよう。

という意味になるのが日本語の本質です。

Ⓑ金槐を探り当てて、持ち帰る。それが二人の役割で・・・・

持ち帰るのは金塊にきまっています。いちいち「金塊を」とか、「それを」とか、繰り返し言わないのが日本語の特徴なんですね。

上の例文ⒶⒷ文ではわかりやすくするために、あえて「、」を打ちましたが、本来なら「、」を打つ必要はどこにもありません。

必要はないというより、あえて打たないほうがセンテンスはスラスラと流れていきます。

Ⓒ豆腐を8等分にして電子レンジで加熱できる器にいれます。  

豆腐を(8等分にして)(いれます)

対格の補語「を」は、文末の「いれます」に向かってスラスラと文のなかを通過してみせるんです。さらに、

Ⓓタイトルをクリックした読者は本文を読んで自分が思っていた内容と違うことを知る。

という例文の場合ですと、「本文を読んで」の「読んで」は「読んだ」の中立法ですが、主格「読者は」が「読んで」のところで止まることなく、末尾の「知る」にまで係っていくのが見てとれます。これを、分解してみます。

タイトルをクリックした読者は本文を読んで  自分が思っていた内容と違うことを  知る

クリックした読者は(読んで)(違うことを知る)という「は」のすり抜けです。「は」の影には主格「が」が隠れています。

従属節から中立法へ、さらに連体修飾節、文節へと、見事に頭でっかちの法則で後ろ後ろに流れているのがわかるんです。

なので、Ⓓの文を実際に音読していただくと、一呼吸でスラスラと読めるはずなんです。

ちなみに、少し長めの今回のブログタイトルも音読していただければ一息で読み切っていただけると思います。

タイトルには中立法は使わず連体修飾節で書いているのですが、頭でっかちの法則に従い表現しています。興味を持たれたら、ぜひ、分解してみて下さいね。

中立法から少し話が脱線してしまいましたが、ただ、すべての中立法が補語を通り抜けさせるわけでもなく、ときに邪魔がはいることがあるんです。

遮られる理由

中立法を遮る邪魔によく見られるのが新しい補語が続けてでてくる場合です。

補語「を」であれば新しい「を」が、「に」であれば新しい「に」という格助詞がセンテンス内に続けてでてくる文構成のパターンですね。

Ⓔ圭介に会って、裕子には会わなかった。

ここでは新たに「裕子に」という「に」が出てくるので、「圭介に」の「に」は「会わなかった」には係らないんですね。さらに、

Ⓕ器を傾けて、水分を捨て、長さ1センチに切ったミツバをのせます。

という料理文の場合でも、「器を」のあとに「水分を」が出てくるので、「器を捨て」というようには決してつながりません。

「器を」の補語「を」は、「のせます」に向かっていくどころか、「捨て」にまですら、とどくことができないんです。

そう、ⒺⒻのような例文の場合ですと、逆に「、」は必要となってきます。

中立法というのは、一旦、補語を通すことが出来なくなってしまえば、「、」を打たないと逆に読みにくいセンテンスに変わってしまうんです。

いや、といいますか、そもそも、書き手のほうがもの凄く書きにくくなってしまうんですね。

その結果、自然に「、」「、」と読点は繰り返され、センテンスはどこまでも躓き、とまどいながら続いていくことになるのでしょう。

つまり、読み手にスラスラと文章を読んでもらいたいという書き手の思惑を遮ってしまう最大の要因は読点「、」にあるんです。

いかにセンテンス内に「、」を打たないように書けるか否かということが、スラスラ文章を読み手に提供できるかどうかの核の部分なのだと言ってもいいのかもしれません。

補語のなかでも、中立法通過を最もスムーズに実現するのは主格「が」なのですが、それゆえに能動主格が無断交代してしまうということがよく起こります。どういうことかというと、

Ⓖとなりの部署の係長が訪ねてきて「どうしましょう」と相談を受けた。

本来なら、後半の「相談を受けた」人物は、前半の「となりの部署の係長」となるはずなのに、話し手である「私」に変わってしまっています。

「相談してきた」としなければならないのに、見えない「私」が無断でまかり出てきているんです。

思わぬところで相談を受けたために、おそらく、意識が急激に自分自身に向かうことになったのでしょう。

このパターンの無断交代は世にでている文章に本当に多く存在します。私自身もおそらくこのブログで多発しているに違いありません。

こういった表現がされた場合、話し手や書き手の視点は途中で完全に自分目線になってしまっているので、容易に気づくことができないんですね。

読み手も書き手の意図をなんとなくボンヤリと理解はしているのですが、おそらく、書き手の真意を読み取ってはいないのだろうと思われます。

だから、中立法をこえて主格が変わる場合は、

Ⓗとなりの部署の係長が訪ねてきて、私は「どうしましょう」と相談を受けた。

というように、明確に「私は」という主格を提示しなければならないのですが、これだと、次の補語がでてきていることがすでに露呈されてしまっているので、中立法はもはや通過を許さない事態となっているのがわかるんですね。

この場合も、やはり、読点「、」は逆に必ず打たなければなりません。

ひとつのセンテンスではあるものの、前半と後半はでは全く違う概念、単に並立された表現を伝えていることを読み手に伝えなければならないからです。

こういった主格交代のセンテンスがあまりにも多くでてくると、もはやそのテキストはスラスラ読めるものとは無縁のものとなってしまうんですね。